EOS 20Dで撮った2008年のシアトルと一部ベガス


 先日、おしごとインタビューチャンネルの文字起こし動画で池羽ひとみさんとお話した回の文字起こしを投稿しまして、ついでに写真の管理やRAW現像を行っているLightroomというソフトで過去の写真をバーっと見ておりましたら、昔なつかしいCanon EOS 20Dで撮った写真が沢山出てきました。

 というわけで今日の写真はシアトルで撮った写真からいくつか。2008年だそうです。

 いやー懐かしい!

 EOS 20Dは2004年発売のデジタル一眼レフカメラでありまして、わたくしEOS Kiss Digital Nの次に購入してガンガン使用しておりました。カメラ2台目とはいえ、まだまだ写真の何がどうなのか、よくわからないまま新鮮な好奇心いっぱいで撮りまくっていた頃の写真です。

 レンズはどうやらTamronの標準ズームと、ごく一部Sigmaの望遠ズーム、これも70−300mmだかの中古で5000円くらいで買ってきたような安いレンズを持って行っていたようです。

 この頃は人生の主たる目的がギターを弾くことであったので写真についてはただ楽しくて撮っているだけ、特にプロになろうだとかそういう大それたことは考えていませんでしたが、ギターも写真も技術という意味では取り組み方が同じで、発表どうこうよりもひたすら自分が納得したいだけで撮っていました。

 それは今もある意味変わっていないんですよね。むしろもうちょっとそのあたり貪欲にやらないといけないよ、と思うんですが、技術的に優れているから発表してすぐキャーキャー言われるというものではなく、ひと目を引くためには、それはそれで別種の技術が必要じゃない、というふうに最近よく思うんですね。

 派手なものを撮る、というのがそういう点では一番かんたんで思いつきやすいことと思いますが、それは撮影技術面でいえば「ぼかしとけばOK」という程度のものでありまして、そこが本質ではないよなあ、作品としてひと目に触れることをプライオリティーの第1位に掲げている人も苦労しとらっせるわ(名古屋弁)というのを感じます。

 まあ正直そちらには興味がないんですけどね。ただこうして過去の、自分から見て懐かしい題材を扱った、でも撮影技術はいまいちな写真をまとめて見てみると、自分自身が「何を写っているかって大事」と思わされます。

 撮る現時点では興味がなくとも、より派手なものを撮って作品としてまとめておくべきなんだろうなあ……という思いを新たにしました。

 今日アップした写真を撮った頃はいちアマチュアカメラ青年だったのですが、それから12年ほど経ち、何の因果か人に写真を教える立場になった今となっては、こんな風に自由に撮れるのは、東京ではなかなかなくなっちゃったなあ、という気持ちもありまして、ちょっと寂しい気持ちになる部分もあります。

 日本人は撮られることが好きではないし、自他の写真を良い形で記録として残すことに諸外国の皆さんほど情熱がないし、だから写真技術者も尊敬されにくいし、アート写真のコレクターもほぼいないし、という感じで、それらのすべてが公共の場で写真を撮ることへの理解のなさに繋がっています。

 そうした人たちを見ていて、まあ日本での写真との付き合い方というのは、基本的に「カメラ好きのおっさんたちがなんかパチパチわけのわからんものを撮っているね」「何が面白いんだろうね」という印象になっちゃうよなあ、撮られた写真そのものには興味ないもんなあ、という塩梅でありまして、およそ写真をやる人間にとっては有利と言えない国なのですが、しかし膨大な数のアマチュアカメラマンが高級なカメラを抱えて毎日あれこれ撮っているのは事実なんですね。

 面白い状況だなあ、これをもっと活かせないものかな、せっかくならもっと技術水準を上げちゃいたいなと思いまして、それがYoutubeで写真のことを扱うチャンネルを始めたきっかけでありました。

 ですから今日アップした写真は日本とアメリカでの写真や写真を撮る人の大きなギャップを感じるきっかけになった写真といえるかもしれません。いやほんと全然違うんだって、扱いが。

ベガス

 最後に、シアトルに滞在している間にベガス旅行へ行った時の写真を。同じくEOS 20Dで撮っています。4枚目のアンテロープ・キャニオンは岩が傷むというので最近三脚禁止になったそうですが、この時はまだ大丈夫でした。たしかスパイクはこの時点でも禁止だったかな。ゴム足の三脚だったので問題なし、ということだった気がします。

 狭い渓谷を水が通った後がこの筋になっているそうで、数年前に突然の鉄砲水で何人か亡くなった、とか聞かされて「大丈夫かよ」と思いながら入り、でも中に入ると地球と思えない景色で楽しかったなあ。

 ベガスはカジノ内でもカメラを持っていて咎められないので「えっ、撮っていいの?」ってガードマンのおっちゃんに聞いたら「撮れば」みたいな反応だったのをよく覚えています。アリなんだすごいな、という。むしろダメな理由があるの? くらいの表情でした。

 日本で写真を撮るのはどんどんめんどくなくなっていますし、Fuji X100Vを持って女性の前に飛び出してくる人のような極端な例がメディアを賑わすたびに「俺も一緒にされちゃ嫌だしなあ」と心理的な圧力を感じて余計にいわゆるキャンディッドを撮る気がなくなっていきますね。

 ああいったものは結局自分の「作品」のために他者を利用するわけで、利用するならするで最低限相手が不快にならないようにするのがまともな人間だと思うのですが、どうもそれが通じない人があのあたりに固まっているというのが、フジの騒動でバレてしまいました。

 結局当事者の方は「逃げるなよ」とおっしゃっていたのにTwitterを消してしまい、作品だからと擁護していた方も擁護noteを消してしまったみたいですね。健全な議論にならなかったことも原因とは思いますが、そういった点も含め日本でのキャンディッドはこれまで以上にサブカル的な、もっといえば世を捨てたような人がやるものになっていくと思います。

街角で撮る

 私の場合どのへんにバランスを置くかというと、街角で撮るのは変わらないんだけど、えぐい人間の姿を狙ったキャンディッドはもうやめとこう、という感じ。

 街角で撮るので人間が映り込むこともありますし、写ったら写ったでやっぱり写真に動きが出てありがたいので今後もどんどん撮るのですが、いわゆるキャンディッドって、要は人の嫌なところを撮ると、作品として強い! って変わった人たちが喜ぶ業界なんですよ。

 美しい人の営みとかそういうポジティブなものを狙うのではなく、「いけない」感じの人が写っているとすごいすごい、って喜ばれるんですね。元祖迷惑キャンディッドおじさんであるBruce Gildenのサイトを見てみるとよくおわかりになるんじゃないでしょうか。

 Bruce Gildenさん、写真は凄いと思うんですよ。欧米であれば社会がまあまあ許している部分もあります。

 ただ、こういうのを頑張って狙って撮る人にも、それを「すごいすごい」と喜ぶ人にも、私はなりたくないなあという感じ。撮る分には面白いと思うんですけどね。リスクを背負って撮ってる! とかアウトロー的にうそぶくのも気持ちが良いだろうと思うのですが。

今のテクがあれば

 何はともあれ、シアトルもベガスも、いま撮ればもっともっと良い感じに撮れるとは思うのですが、テクいのと写真として鮮烈かどうかは別だなあ、というのを、もう数世代も前のカメラで撮った写真を見て思います。

 もちろん古いカメラだから良いという話ではないですし、そればかり言っているとカメラメーカーもカメラ屋さんも潰れてしまうのでアレなのですが、撮る本質の部分は変わらないな、それを忘れないようにしないとな、と思いました。

 それではまた。


1 thought on “EOS 20Dで撮った2008年のシアトルと一部ベガス

コメントを残す