わたくし10年ほど写真の世界で飯を食わせてもらっておりまして、その中でつくづく感じることは、写真仕事を始めた時って自分が何で飯を食わせてもらっているか分かっていなかったなあ、ということです。
人間の社会は価値を交換することで成り立っておりまして、まあ時間により場所により関係性により不均衡になっていることは珍しくありませんが、基本的には何かしらの価値と価値を交換することで成り立っているということそのものに反対される方はあまりいらっしゃらないでしょう。
写真仕事を始めた頃の私は営業写真の会社に社員として所属して給料を受け取り、毎日やってくるお客さんの写真を撮る仕事をしておりました。
そこでは会社員という雇用形態なので、労働と金銭がいったん切り離されているんですね。すると目の前のお客さんを喜ばせるかどうかと、自分の懐に入ってくるお金が関係ないものとして認識されてしまいます。これはもう雇用形態上仕方のないことと思います。
労働という言葉のイメージはまさにそれで、目の前の作業をこなすことと、自分が月に一度受け取る給料が全く関係ないわけではないんだけど直結している気はしないなあ、という感じ。実に社会主義的です。
それが悪いというわけではなく、経営者が責任を果たし、能力がある限り業績に関わらず約束された給料は支払われることになっていますし、失業しても会社が失業保険を払っているはずなのでしばらくは食いっぱぐれることはありません。
問題なのは、作業を仕事としてとらえる意識が希薄になることの一点です。
仕事というのは、作業と価値の交換がセットになったもののことであって、作業は作業でしかありません。
作業
仕事をするということは誰かの役に立つことでありまして、だから対価としてお金を得ることが出来る、というのが基本です。
それが出来ると目されているからこそ、遡る形になりますが「お金を払ってお願いしよう」となっているわけです。
つまり業として成立しているということは誰かからお金を払ってでも必要とされているということ。私も気に入らない業種というのはありますが、お金を払ってでも必要とされているからこそお金が入るというのは厳然たる事実ですから、気にいる気に入らないは関係ありません。ちょっと乱暴ですが基本的にはそういうことと考えています。
前述のように給与所得者の場合、どうしてもお客さんが得をするということと自分の懐に入るお金が頭の中で直結しにくいですから、作業は単なる作業でしかなく、しかも組織が大きくなればなるほど仕事は分業化しますから、毎日似たような仕事ばっかしで嫌になっちゃうな、ということになりがちです。
私も営業写真の時代は、毎日同じものしか撮らないので次第に飽きてきまして、自分を飽きさせないのに苦労しました。飽きたら本当にただの作業なので、営業写真世界でよく見るうんざり顔のふてくされたカメラマンおじさんみたいになっちゃっていたと思うんですね。
ですから自分が本格的に嫌になる前に営業写真をやめて商業写真に鞍替えしました。以来ずっと、自分の能力を鍛え、少しずつ社会の役に立ちながら自分も飽きないようにする、がテーマになっています。
撮られる側
こういったことはもちろん私の考えであって、他の人にもそうであれと強制すするつもりはまったくありません。
しかしどう見ても世の中の構造を大人の目で見ると「そう」なっているわけでして、つまり仕事というのは人の役に立ち、対価を得ることです。
役に立つ方法はさまざまで、直接喜ばせることが大事な場合もあれば、直接は相手が嫌がることをするが結果的に社会全体の役に立つ、という警察のような仕事もあります。
写真の世界で生きていて思うのは、私は写真を撮る側ですが、写真を撮られる側は意識をどこに置いているんだろう、ということ。
写真を撮られることで対価を得ている人をモデルさんと呼んだり被写体さんと呼んだりしますが、言語感覚が鋭い人の場合、被写体さんと誰かを呼んだ時、その人はプロのモデルさんではないなな、というニュアンスが含まれるのを感じ取るのではないでしょうか。
たとえば撮影会に被写体さんとして参加して、そこでギャラを受け取るのだけど、いわゆるファッションモデルのような仕事ではない。
モデル論についてはまた別の機会にと思うのですが、写真の世界ではその被写体さんがギャラを受け取る際に、一体それを何代として受け取っているのか? というのが話題になることがよくあります。
プロのモデルさんの場合、もちろん外形的には「写真を撮らせること」が仕事なのですが、例えばファッションモデルであれば服を売ることが最終的な目標です。
ですから、服がよく見えるように写真に撮られることを考えるんですね。ポージングというのは本来そういうものです。
日本は何かにつけ「道」にしてしまうところがある国でして、どうにもこう、モデルという言葉やモデリングのスキルについて、本来であれば前述のようにシンプルな話のはずが、ファンタジーを付与してイメージを膨らませてしまう人が多いんであります。
プロのファッションモデルの人は、最終的に自分が着せられた服が売れること、そうしてクライアントが得をすることを使命として帯びていることを理解していることが求められるんですね。少なくとも私はそう理解しています。
ですから良いモデルさんというのは、現場での態度がへりくだっていて扱いやすいとかそういう限定的なことではなく、仕事の構造を理解して何をすべきか分かっており、かつそれを十全に果たす能力を持った人のことです。
被写体さん
翻って「被写体さん」というのは撮影において一体何を自分のミッションと捉えているのでしょうか?
これまで色んな被写体さんと話をしてきましたが、意見が分かれて面白いんですね。撮影のギャラは何に対してのものだと思う? という聞き方をすると、反対にその被写体さんが撮影をどういうものと捉えているかが分かります。
例えば、ギャラは拘束される時間に対する対価である、と答える人がいます。
その人は写真の内容に興味がないのかもしれません。
例えば、ギャラはカメラマンが良い作品を作る手助けをする技術料としてもらっている、というニュアンスで答えてくれる人もいます。実にプロフェッショナル。
前者のように「そこにいる代」としてギャラを捉えている場合、ポージングにはさしたる重要性を感じないでしょうね。そこにいるだけで有償ですから。これは下手をするとデート代という捉え方でも同じといえば同じになってしまいます。
後者の場合、もちろん拘束されるので基本給は取るが、それに加えて技術料も乗っけまっせ、というスタイルですね。カメラマンも実際これに近いので、あとは撮影する人によって、撮影の種類や意図や志によっては賛同できるのでお安くしますよ、ガチ商用ならお高めに取りますよ、というような裁量が加わってきます。
慣れてくると、Twitterなどで流れてくる写真から、写っている被写体さんがどういう考えで撮影に臨んでいるのか、撮っている側はそれに応えてきちんとセッションとして成り立っているかというのも類推できるようになり、さらにはそれを自分の撮影にフィードバックする面白みも出てきます。
撮る側として
私自身はどう考えているかというと、仕事の場合はプロのモデルさんってものすごく助かるんですね。
仕事上、プロのモデルさんを撮る時もあればそうでない時もあるのですが、プロのモデルさんは前述の通り、そこにいる代だけではなく、ミッションとして何が重要かを根本的に理解してくれている方が多く、目的が定まっている(人が多い)ので、いちいち「これはね」と説明する必要がありません。
正確に表現するなら、別に誰が相手であっても説明ゼロで撮れないことはないのですが、一定のクオリティの写真を撮るために必要な説明が少なくて済んじゃう、ということです。ツーでカー。仕事でやってりゃ効率が良くないとギャラが下がるので、まともな人間ならそうなります。
たとえば写真を撮る目的が「モデルさんを可愛く見せる」ことなのか、それとも「服を可愛く見せて売る」なのかで撮る側も撮られる側もアプローチが違ってくるんですが、
被写体さんを撮影する場合は、説明する範囲がぐっと広がってくるんですね。
こういう意図があるんでこうしてほしくって……という。しかし出来上がりのイメージが撮影時点で共有できるかというとそんなことはなく、それはプロのモデルさんの場合、媒体によって似たような写真を撮ることが多いので早く慣れてしまう部分もあるのだけど被写体さんはぐにゃぐにゃにノールールな撮影をしている方が多いので、普段からこってこての撮影会写真、いわゆる80年代アイドルの「きゅーん」みたいなポーズばかり取っている人以外については定形がないのでなかなかイメージしづらいようなのです。
ですが、被写体さんであったり、撮られ慣れれていない人と撮影するのは、こちらが「どういう言葉を投げかけるとどう人は動くのか」みたいな訓練をする場としても大変おもしろく、プロは楽、被写体さんはこちらのトレーニングになって面白い、という感じでいます。
その上で、先方がギャラこんなもん欲しい、というのに対して自分がその撮影に対してどれだけ必要性があるか、重要度があるかによって可否を決定しているという感じでいます。
人物写真は撮る側と撮られる側が明確に分かれるわけで、でも撮っているはずなのに撮った人間が写真にかなり正確に写っちゃう、というのは昔から言われるんだけど事実なんですよね。
人物写真の場合、それが一番顕著に出る気がするので、今後もどんどん人間を撮って行きたいと思っています。
それではまた。