「褒め」と観察力の関係


 人物写真が上手くなりたいと思った時、写真教材を探してみると、日本人が書いたもの、海外の人が書いて日本語に翻訳されたものなど様々なものがありまして、たいがいその中には「被写体とコミュニケーションを撮りましょう」的なことが書いてあります。

 コミュニケーションが苦手な人の場合、そういった点から人物の写真を撮ろうと思うこと自体、おそらくけっこうチャレンジングなことでありまして、普段カメラを持っていない時に他人とコミュニケーションを持つのが苦手なのに、カメラを持ったからっていきなりべらべら喋ることができるようになるわけではないですよね。

 でも教材では「コミュニケーションをとろう」の一点張りだったりして困惑することがあると思います。難しいもんですよ実際。回答がありません。

 世の中には誰かに何かを教わる時、回答を求めてしまう人が一定数いまして、そういう傾向を持った人はそもそも人とコミュニケーションを取るのが難しいと思います。だって千差万別、人によって正解が全然違うわけで、私も人に写真を教えていて「正解は?」と聞かれてスパッと答えられるのはほぼ機械の話のみ。

 そもそも正解があると思ってる方がおかしいと思ったりもするのですが、趣味で撮っていてインスタントで安価で自分さえ楽しけりゃ良いやと思う人は正解を求めてしまうものなのかもしれません。
 正解がないものを追い求めて自分を高め、これが正解なのかも……? というのを自分の手と頭を使って得て、それをそこまで到達した人間にしか分からない言葉で同好の士と話して「やっぱり!」と突き合わせるのが趣味として上等と思うのですが、世の中色んな人がいるので必ずしもそういった楽しみ方しか認めないというわけではありません。

 コミュニケーションについていえば、「これを言えば誰でも最高の笑顔になる」みたいなものがあるのでは、と探しちゃう人もいるようですが、そんなものはありません。あえて挙げるならポケットに常に子猫を常備しておき、サッと取り出してみせるくらいなものですね。
 子猫効果があれば7割位の人は笑顔になってくれそうな気がしますが、ふにゃふにゃの笑顔になりすぎて、全ての撮影目的に沿うかというとそうでもないかも。

写真に正解はない、というやつ

 最近よく思うんですが、そもそも写真に正解はないんですよ。

 こう言ってしまうと投げ出してしまっているようでアレだと思われるのかもしれませんが、そういう話ではなく、自分で材料を揃え、写真の形にしてみて「これが一応正解ということで、どうでしょう?」と他者にプレゼンするのがコミュニケーションとしての写真のあり方だと思うんですね。

 つまり、誰かが作った仮定の正解に向かって写真をはめていくのではなく、自分でロードマップを作り、現場にあるものにより臨機応変に一つの写真を導き出し、それをもって「私にとってはこれが正解だと思うんですけど、どう?」と他の人に問いかけるのが写真ではないか、という風に思うんです。

 考えてみれば戦争でも家庭生活でも仕事でも、型どおりにことが運ぶほうが珍しいでしょ。

 もちろん見る人や評価される場により、それが正解である場合も正解でない場合もあるのですが、この考え方をベースにするのであれば、写真を撮る際にテンプレートにはめるような不毛な撮り方をしてしまっているな、と思う人が自分で撮れるようになるかもしれません。

 そりゃまあ自分で正解と思えるものを導き出すということは、逆にいえば自分で問題を作るのと同じですから、テストに回答する側ではなくテストを作る側に自分の立場を変換し、意識を変えないといけません。大変ですよね。

 でもプロ・アマ問わず、自分の写真を撮っているなという人はそういう考え方で動いている感じがしませんか?

コミュニケーションと正解

 他人とのコミュニケーションにも正解はありません。ただ最低限のゴールは一応設定されていて、互いに同じ時間を過ごすのであれば不快であるよりも快適である方が良いよね、というもの。

 人物の撮影をする場合は特に、目の前の人の容姿のみを取り扱いますし、その容姿のポイントを押さえて「この人は鼻筋がきれいだから鼻筋をきれいに撮りたいな」というように、写真のポイントになるような、美点として構図のキーになる部分を見出すと話が早く進みます。

 そのついでに「鼻筋がきれいですねえ」と褒めればそれで良いんじゃないの、という風に思うんですね。ものすごく単純化していますが、基本的に私はそういう考え方でやっています。

 これが写真作家として「俺の作品を撮る!」というような場合、またちょっと違ってくると思いますが、楽しくコミュニケーションをしながら人物を撮ろう、という範囲内では有効ですよ。仕事で撮っていてもバリバリ有効です。なんせ褒められて不愉快になる人はそうそういません。

褒め方

 褒めているはずなのに相手が不愉快になるのだとしたら、それは褒め方、褒める言葉のチョイスが間違っているから。

 残念ながら日本人男性は他人を褒めるのが非常に下手です。
 自分にとってポジティブな言葉を相手に投げているのだから相手も喜ぶ筈だ、喜ばない相手が間違っているという人もけっこうおりまして、それがどれくらい的外れであるかは女性の側に率直に意見を伺うとボロボロ「こんな風に褒められても不愉快」というのが出てきます。

 つまり褒めているつもりでも相手にとっては不愉快に感じられることがあるので気をつけよう、のパターンですね。

 「おっぱい大きいですね!」と「褒め」るのは、「おじさん髪の毛少なくてすっきりしてるね!」と言うのと同じ。言葉を投げかけている側はポジティブなつもりでも、言われた方は思いがけずグサッと来たりします。

 褒めている自分が好きなのか、相手に敬意を持って褒めているのかは意外なほど伝わってしまいますから、相手を褒めている自分が好きなんだなこのおっさんは、と思われたらその時点で何も言わないよりも評価が下がります。

 上記のことは通常のコミュニケーションの場のことであって、これが撮影となると、目の前にいる被写体を褒めないといけないと! とプレッシャーに襲われる方が多いのですが、褒めるところが見つからないなら下手に「おきれいですね」とか「イケメンですね」とか浮ついたことを言うよりも、黙っていた方がまだマシなのかなあと思うんですね。

 つまり初手から無理して攻めない。

 よろしくおねがいします程度の挨拶を交わしてパチパチっと撮り始めて、その中で「ああ髪がきれいだな」というように美点を見出したらそこを褒めれば良いだけであり、また美点が見つからないのだとしたらそれは相手をちゃんと見ていないということですから、やはり無理して褒めても相手は喜ばないと思います。
 だから黙ってじっと観察しながら撮っている方がマシなんじゃないかという気がします。

 しんどいのは、被写体サイドが、(なんだか頑張って褒めてくれているから、嬉しくないんだけど喜んでいるふりをしなきゃ……)というふうに気を使わせてしまうパターン。
 さらに酷いパターンになると、撮影者がポーズ上「ああしてこうして」と指示をする立場にあることを利用して、被写体に言うことを聞かせようとする場合もあります。これはいけません。

 褒めるポイントはその人に備わった造形だけでなく、その日に選んで身につけてきたものや、撮影する際にした動作でも良いので、いくらでも見つけられると思うんですよね。見つからないんだとすれば、それは撮影者がカメラの操作で手一杯になっていたりして、ちゃんと相手を観察できていないということ。

愛情

 女性ポトレの撮り方を教える系の教材を見てみると、『被写体に恋をしよう』みたいなことをおっしゃる講師の方がけっこう多いのですが、私はアレけっこう危険だと思うんですよ。
 上記のような前提を抜きにしてキーワードだけ独り歩きすると、カメラを持った変質者を育ててしまいかねません。

 写真を撮る上での愛情というのは、撮っている相手に劣情を抱きましょうということではなく、美点を拾い上げられるくらいしっかり観察しよう、ということだと思うんですね。

 そのあたり上手く分離してやっていければ良いんだけどなあ……と思いつつ、世代間で人物、とくに女性を扱った写真を撮ってみると女性観の違いがあって、昭和の世代は女性をゴリゴリにモノとして利用して当たり前、それが商売でしょみたいな考え方もそこかしこに見受けられたりするので困ったものだなという感じがいたします。

 こういうものは一挙に変わるものではなく、じわじわと浸透していつの間にか潮目が変わっているという類のものと思いますので、賛同してくださる方は是非とも男性女性問わず被写体と良い関係を築いて楽しく撮影をしてほしいなと思っております。

 それではまた。

美点を見出すという意味では女性も猫も一緒

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