写真は撮影した時に、被写体の存在を一部コピーして持ってくるものだという考え方がある。まるで勧請だが、実際にそうなのだろうか。
たとえば日本全国に八幡様と呼ばれる神社はたくさんあるが、元の八幡大明神はピザのように分割されているのではなく、勧請という形で譲り渡されるので減らないという建付けになっている。
つまり森の石松の墓石のように削り取って分社するのではなく、分けても分けても減らない存在として扱われており、たしかに人間社会の善いものは複数人で共有しても減らないどころか、より増すものもある。
仲間の身に起きた良いことを喜ぶ時、人数が多いからその喜びが減ったと考える人間は少ないだろう。そういう意味で勧請という考え方は理に適っている気がする。
ただ、写真を撮る行為が勧請なのかというと、たしかに元ネタになった被写体は減るわけではないのだが、被写体を写真に撮ったからといってその存在が一部でも分かれて別の場所に存在しているかというと、それは違う気がする。
その違いは何かと考えてみると、少なくとも私の場合、写真に写した時点で被写体は被写体としての存在から離れ、写真になると感じる。被写体は飽くまで写真を形成するパーツのひとつであり、写真は写真でしかないのだ。
例えば誰か人物を写真に撮るとして、写真に写った時点のその人が記録されることは間違いないが、だからといって写真を撮った人間が写った人間を一部でも手に入れたかというと決してそんなことはない。そういう意味では勧請ではないだろうし、作品として撮るのであれば、被写体は上手く利用させてもらうものであって、その存在に写真の価値を委ねるような撮り方ではいけないだろうと思う。
写真は三次元の実存を二次元化して虚ろなものに変換する。
それはつまりコピーがオリジナルに対して真実性で上回ることは絶対にないということだ。しかしそれこそが写真の本質である。
情報が氾濫する、まるでカオスのような三次元から、画角だのボケだのを使い、四角い枠の中に押し込める形で二次元化することは、4Kで収録した映像をDVDに押し込めるかのようにごっそりと情報を減らさないと納まらない。
だから写真を撮る行為というのは減算が主であって、オリジナルをコピーすることではない、というのが私の考えだ。上手く行った写真というのは、減算の手法が鮮やかだったということに他ならない。写真はパッシブな芸術だ。
ただ、家族のように愛する人のことは、今この瞬間に一部でも良いからコピーして手元に置いておきたいと思う気持ちがよく分かる。
講師として写真を教えるのであれば、そうした動機がある人に対して、上手な減算のやり方を教えていくのが義務だろうと思う。