写真はパッシブな芸術


 技術解説や旅行記、エッセイ的なものだけでなく、小説を書こうと七転八倒していると、写真はいかにもパッシブだ、と気づいた。パッシブとは受動的ということである。

 エレキギターやベースに傾倒している人間は、別名マイクと呼ばれるピックアップの種別でパッシブ、アクティブという言葉に馴染んでいる場合が多い。

 弦の音を拾うコイルと磁石が磁性体である鉄の弦の振動を交流の電気信号に変換し、そのまま増幅することなくアンプに送るパッシブ方式に対し、振動を拾って交流電流を発生させた直後に電子回路で信号を増幅し、ノイズに対して有利にしてあるアクティブ回路という形で覚えている。

 パッシブは生っぽい、人間らしい音がするがノイズが多めであり、アクティブはノイズレベルが低く便利だが少し人工的な音だ。

 ピックアップはパッシブのもの、アクティブのものがそれぞれ別に売られており、ボリュームやトーンを調整するポテンショメーターも抵抗値が違うので、ピックアップをパッシブのものからアクティブのものに交換しようとすると回路を丸ごと交換する必要がある。アクティブ回路の場合はプリアンプを駆動するため電池も埋め込む必要がある。

 そもそも電気回路、電子回路という呼び方自体、電気回路が増幅する素子を持たないパッシブな回路であり、電子回路はICやダイオードなど増幅する素子を含むアクティブな回路という呼び分けだから、その点でもパッシブ、アクティブは大きく分かれているといえる。

 写真を撮っていると、これは実にパッシブな芸術だなあ、と思わされることが多い。

 なにせ現実にあるものを機械を使って二次元化するのである。
 その過程でアクティブに増幅することなどあるだろうか? 基本的には増幅するどころか、何かを変更するたびに劣化していくのみである。それはパッシブだ。

 モデルにヘアメイクを施し、凝った衣装を着せて花に埋めて撮るとして、それはプロジェクトという点では被写体の美しさを増幅しているのかもしれないが、レンズの向こうとこちらで分けた場合、すべての増幅はレンズの向こう側で起きている。撮影してから美を増幅しているわけではない。

 素晴らしいカンチェンジュンガの風景と撮るにせよ、風にそよぐコスモスを撮るにせよ、撮影者の前には常に世界が完全な状態で立ち現れており、撮る行為はそれをパッシブに二次元化するのみである。

 私自身は、パッシブすなわち受動的であることに対して特に意義を唱えるつもりはない。写真とはそういうものだろう、という、ある種の心地よい諦めがある。被写体をより「良く」見せようなどというのはすでに嘘なのである。そこに解釈の加わる余地はあっても、根本から撮影者が何かを「良く」することなどありえないのである。それは写真の領分ではない。

 もちろん自分の撮影技術がそれを引き起こしたと感じる瞬間もあるが、極端にいえばそれは連続した時間の中から一部、盗むように取り出して定着するのが偶然上手く行ったに過ぎない。

 奇跡は起きず、鳳鳥は至らず、世界は撮影者が存在しようがしなかろうが歩みを止めることはない。それでも撮るのはなぜだろう。それを考えるのが写真を撮る上での大きなテーマの一つなのかもしれない。


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