写真を学ぶ・複雑さを知る


 とかく写真は撮れば現実にある何がしかのコピーが得られると思いがちだし、それ自体は間違っていないのだが、写真を学ぶことは正確にコピーすることを学ぶものではない。

 ただ写すだけならカメラがかなりの部分を自動でやってくれるし、実際その方向でカメラが進歩してきたのは間違いないが、写真を学ぶということはMT車に乗ってABSをカットするように、すべてマニュアル操作で面倒な思いをしてみることが重要だ。

 べつに面倒な思いをしたから偉いというわけではないのだが、我々人間は他の誰かがやっていることは、どれだけ近くで見ていたとしても観察以上のものにはならず、やってみなければ体得できない性質を持っている。
 助手席に何十年乗っていようが実際に自分でハンドルを握る5分に経験としては絶対に勝てない。人間の脳はそう出来ている。

 フルマニュアルで撮影するということは一つ一つの要素に対して自分で決定を下していくことに他ならず、決定を下すということは、なぜその値に決定するのかに対して理路が生まれるということだ。

 絞りの決定がすなわち写真表現だということにはならないが、なぜ君はF5.6でこの写真を撮った? という問いかけに対し、それなりの回答が出てこなくてはおかしい。なぜなら写真に写っている要素はすべて明確な作為のもとに決定されているのが前提で、だからこそ写真の著作権は撮影者に付与される。背景に見知らぬおっさんが写り込んでいたら、それはおっさんのせいではなく撮影者の責任になるのだ。

 これは他の芸術で考えてみれば当然のことである。絵画は画家が描こうと思ったものしかキャンバスの上に現れない。作為100%である。写真は技術を突き詰めた果てにある、残ってしまう偶然の部分が一番の面白みだが、逆にいえば面白がるためには偶然の要素を減らしていく必要があり、そのために技術を学ぶのである。

 無頼を気取って写真技術を否定する者も多いが、それは写真を偶然に任せて放り出すタイミングを早めに持ってきたがっているのだ。
 私としては禁治産者がコンパクトカメラを振り回して「偶然良い感じに撮れちゃった俺すごい天才」みたいなヘタウマ信奉は写真を学ぶ上で意味がないと理解している。デジタルカメラやSNSと相性が良すぎるせいで、いいかげん飽きるどころか嫌悪感まで抱くようになってしまった。

 あれはアンチテーゼであって、テーゼがしっかりしているところへ寄りかかって甘えているのだ。しかもほとんどが感性すらコピー品である。偶然の要素、不作為の要素がすべての写真にとって核心的なパートであることは間違いないにせよ、実家の金でいつまでも放蕩息子をやっているような者は尊敬できない。
 大事なのはど真ん中の、その世界を成り立たせている本質的な技術の方である。

 写真を撮る上で決定していく一つ一つの要素は小さいが、その多くは絞りシャッタースピード感度の関係のように互いに作用しあって好き勝手に決めることが出来なかったり、上限下限どちらも撮影者の希望するところから外れており、仕方なしに選ばざるを得ないことも多い。

 たとえば暗いところで写真を撮る時に、絞りとシャッタースピードをそれぞれの都合で先に決定してしまうと、感度が犠牲になる。光の量は有限だから、こういうことは往々にしてある。

 これは絞りとシャッタースピードのために感度を犠牲にしていることに他ならず、感度は画質を最優先するのであれば最低感度にしたいところだが、それではまともな写真にならぬ、というのでギリギリ破綻しない感度を選択したりする。
 またその際、絞りとシャッタースピードにも融通してもらったりと政治的な駆け引きの面すらある。

 写真を撮る行為は、一つのパラメーターを随意に決定して良い、というものではなく、あらゆる細かなパラメーターとそれらの間に働く柵としか言いようがない関係性を理解し、掌中に収めるのがその芸事の本質であり、つまり写真の撮影とは複雑さの理解に外ならないのだ。

 だからこそ、鑑賞の上ではそれだけコントロールしきろうとしたにも関わらず写真に写り込んでしまう不作為の部分が面白みになる。

 社会の複雑さを知る大人にこそ面白がって取り組める奥行きのある芸事だから、気になっている人は是非ともカメラを買ってこの世界に飛び込んできて欲しい。


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