近江八幡訪問記 あとがき


 2024年の1月14日と15日、日曜月曜というちょっと変わった日程で滋賀県の近江八幡へ「紀行文というやつを書く場合、どういう情報収集のしかたをするのか」と取材に行ってきた。

前編
後編

 最近旅行をしていないので、近い距離で少しでも旅感があるところへ……と思っていたら、写真仲間が琵琶湖のほとりへ鳥を撮りに行くというので、それにかこつけて近江八幡まで足を伸ばすことにしたのである。

 滋賀県といえば彦根の廃村にばかり行っているが、そういえば近江八幡も昔からの要衝の地として名前だけは知っていた。ネットで軽くリサーチしてみると、堀と船と桜と、という感じの写真がたくさん出てくる。

八幡山から近江八幡市街を望んで

 ここ数年、旅先へは撮影作業に没頭するためだけに行っていた。だから旅行を楽しむという感じではなく、スナップ写真を撮りやすい環境はどこにあるのかを優先で考えていた。

 カメラを取り上げられてしまうと途端にカタカタと貧乏ゆすりを始めて落ち着かなくなるような、依存症じみたところがあるのが私にとっての写真というか写真撮影作業で、それを無制限にやるため、日常でどうしても掛かる時間その他のストッパーを外すために自分は旅に出ているらしい、というのがこのブログを始めてからの自己分析で分かってきた。

 だからどこへ出かけたとて、旅に出るのが主たる目的ではなく、撮影作業に没頭する許可を得るような、日常からの逃避と撮影中毒を兼ねたような、不健康な旅だった。

 撮影そのものが目的だから興味はせいぜい撮影からRAW現像までで尽きており、だから写真作品で世の中に訴えたいことというのもほとんどない。撮る私と、1カットを見た誰かの1対1のコミュニケーションが成立すれば十分で、そこよりも広く遠く写真を届けようという気にならない。実に無気力なことである。

 むしろ何かを言語化して世の中に訴えかけたい欲求のほうが写真作品を作りたい願望よりも強い。だから今回は出来るだけ写真を撮ることに集中せず、むしろ自動書記状態で自分の手が勝手に撮ってしまうことに期待し、メインは旅行記の取材として近江八幡へ行ってみることにした。

 カメラは「うおおお俺は写真を撮っている!」と気持ちが盛り上がらない、また同時に操作に苦労して撮影に集中しすぎないで済むLUMIX S5IIXにして、レンズも下手に写真気分に浸らないで済むズームレンズを使って淡々と記録するタイプの組み合わせにして、脳パワーを言語脳力に振り分けるよう自ら仕向けた。また積極的にメモを取ることにした。

 結果的にメモを取ったことは大正解だった。昔から紀行文をやる人たちが狂ったようにメモをしまくっているというのはあちこちで目にしており、真似してみたら「なるほどこれは」と納得した。現地で感じたこと、事実関係を即座に冷凍保存しておけるのだ。後からどの情報を解答するかは文章化する際にじっくり検討出来る。

八幡山から白雲館

 記事としてまとめてみた結果、写真については、観光ガイドではなく紀行文をやるのであれば、写真はなくとも良い。むしろ下手に説明的な写真を使ってしまうと、読者が想像を広げるのを邪魔してしまう。
 何かしら掲載するにせよ、抽象的なカットが1記事に1~3枚程度あれば良さそうだ、というのが今回得た知見である。

 次回どこかへ行く際は適当なカメラと明るい単焦点を持って、よく分からないがカッコいい写真を狙いつつ、耳では情報収集して手はカメラとペンを持ち替えつつ……というのが良さそうだ。

 また折を見て紀行文取材の体でどこかへ行こうと思っている。まだ紀行文としてのテーマを何にするのか、ちょうど良いキーワードが見つかっていないが、そこに行けば何か印象的なものが得られ、抽象的な写真が撮れるようなところ、ということで間違いないだろう。岐阜の郡上八幡あたりが良いかもしれない。


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