盗用写真家との付き合い


 アキラタカウエという建築、都市景観を主に撮っており、カメラやその関連商品のメーカーがWEBサイト上に作品やインタビューを掲載する写真家がいる。

 彼は素晴らしい経歴を持ち、華々しい写真賞の受賞歴があり、国際的な写真展の審査員まで務めているそうなのだが、SNSでの写真盗用が発覚した。

 下世話なまとめサイトにまで掲載されるくらいには世間を騒がせるニュースになっており、Twitterでは自分の写真が盗用されたが、抗議をメッセージで送ると即座にブロックされ、写真も削除されたという人がいた。以前からたびたび同じ行動を繰り返していたようである。スティーブ・マッカリーの写真すらも盗用の対象になっていたことには心底驚かされたが、写真の盗用はこれまでもあったし、これからもなくなることはないだろう。

 手口はより巧妙になるだろうし、それを支援するのも暴くのもAIの力を使う未来が見える。これは倫理とテクノロジーの問題であり、泥棒がいることと鍵をかけることの関係のように、慣れてしまうしかない。どれだけ啓蒙されても殺人事件が起きるのと一緒だ。 問題は写真やインタビューを掲載していた各メーカーや、彼の才能を発掘し、利用してきた東京カメラ部の対応である。

各メーカーおよび団体の反応

 2022年12月7日現在、カメラメーカーのニコン、ソニーは掲載を中止し、フィルターメーカーのKANIも掲載を中止したが、同じフィルターメーカーのNISIと、2013年東京カメラ部十選という形で世に送り出した東京カメラ部はサイト上に変更を加えず、声明らしきものも出していない。

 もっとも、ニコンも釈明文を出しはしたものの、見つけにくいところへ役人の答弁のような中身のないものを掲載しているだけで特にどうというものではない。

 日本は東京藝大の名誉教授が思い切りパクリをやっても実質お咎めなしになる国だから、この程度の対応でも人によっては厳しく感じるものなのかもしれない。当ブログでも宮廻氏の件を扱ったが、いまチェックしてみたら謝罪文はすでにリンクが切れて404である。
 やはり日本はパクリに甘い。Twitterでも東京カメラ系と思しきSNS写真家から「いきなり晒し上げるなんて可哀想」という盗用側の肩を持つ意見が出ていた。

 アキラタカウエ氏に(恐らく)最初の名声を与え、世の中に送り出した東京カメラ部は現在も授賞歴を掲載したままである。東京カメラ部側が社会に対して何の意見も発することがない状態では、掲載し続けている(2022年12月8日時点で404化)こと自体がメッセージになっている。

 藤里一郎氏の不祥事発覚があったときも、富士フィルムは氏の情報が掲載されていたページを即日すべて削除したのみで何の声明も出さなかった。

 富士フィルムは先行してあった鈴木達朗氏の攻撃的すぎるストリートスナップ炎上騒動で懲りたのだろうが、一連の件で「写真文化を担う」などという言葉が責任を伴わないものであり、単に機器を製造販売するメーカーであると自ら宣言したに等しい。私はもともとそれで良いじゃないかと考えるタイプである。

 だから日本の写真界隈の人間が、社会に対して悪い意味でインパクトのあることを、同じ写真家と自称している人間がやっているのを目にしても何も言わないのは当たり前なのかもしれない。日本のアート写真は社会とつながっておらず、社会の写し鏡を演じるわけでもなく、ただ数秒間気持ちよくなれる消費物を提供する芸人に過ぎないと自ら証明しているのだ。

ベネフィット

 裏を返せば、声を上げなければ「お前も同じことをしているからか」と疑念を持たれかねないのに批難の声明を出さないことについて、何かしらベネフィットがあるはずだ。

 それは例えばメーカーからお仕事をもらおうとしている人間が、たとえ公正なことであっても世の中に意見を発しているのを見られたらメーカーが嫌がるから手控えたりと、消極的に利益を求める行動であるように思う。
 メーカーは総体として見れば巨大だが、実際に動いているのはただの個としてのサラリーマンである。組織としての利益とは別に組織内での個人の利益を追求するし、そうしなければ組織で働いている意味がない。

 カメラメーカーの社員からすれば、作例写真を撮らせる人間が余計なことをすると組織内での自分の減点につながる恐れがあり、大人しくしてくれている者のほうが嬉しいのは間違いない。だからメーカーの作例写真はつまらない。
 藤里氏の扱いも、何の声明も発表せず即日削除した富士フィルムの対応から「ああ、あれはアーティストではなく単なる業者扱いだったのか」と納得してしまった。それでもメーカーに声をかけてもらって仕事をするのは、少なくともSNS界隈で活動していれば喉が出るほど欲しいものだ。

 SNS写真家のほうがそうした発注側の気持ちに配慮して大人しくしているのは、写真作品や撮影行為を純粋に商行為として捉えるなら、少なくとも短期的にはOKという感じがする。その程度の社会性しか持たずに「写真家」という肩書を名乗るのは少し大げさなように思われるが、どう名乗るかは個人の自由である。

 東京カメラ部もそうした合理性に基づいて動いている。なにせ実態は株式会社東京カメラ部であり、ガッチリ自治体に食い込んでいるのである。
 ただ私からすれば、その合理性は商行為に都合の良いものであって文化とは相容れないものである。
 文化は時に社会と価値観を戦わせることによって先人たちにより営々と積み上げられてきたものだ。自分たちの身内が社会に対してインパクトを与えた事柄について、自分たちが一体どう考えるのか表明しないのはフェアと思えない。

 私自身はたかだか150年程度しか歴史がない、絵画の軒先を借りているような写真の、さらに東の果ての出張所みたいな日本の写真界隈で食えてもいないのに「写真芸術とは!」などと講釈を垂れるような手合は嫌いだ。しかしインターネット以前の世界で写真でメシを食うには、大なり小なりそこに連なるしかなかった。

 しかし写真世界にインターネット時代が到来し、昭和スタイルへのアンチテーゼのように東京カメラ部が立ち上がった。ある意味でその連続性のなさが画期的ではあった。私個人としても、昭和臭のきつい日本写真界に連なったところで何も得るものはなく、結局自分が興味を保つのは商業の範囲だと割り切ってしまった。

 だからこそ感じるのは、文化の担い手を標榜するのであればその責任はより重くなるし、負うつもりがないのであればそれはコマーシャリズムであり、消費物を世の中に振りまいて楽しんだ分だけお代を頂戴、のエンタメである。アートなのか純粋な商行為なのか?

 私は遠慮なく後者を選ぶことができるが、SNSで写真家と名乗る人々や、それを束ねる団体は、アートを標榜しながらその名声を借りているに過ぎないのではないか? 日本の芸術写真業界の人間たちも決して褒められるようなものではないが、さらにそこへフリーライドして「なんかハイソっぽいことをしていてかっちょいい響きだけど御用聞きの業者じゃない感じ」の美味しいところ取り無責任商売をしているのではないか。

 今回の件を受けてそう思った次第である。


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