近頃、日中の気温は30度を大きく超えるが、海沿いはあんがい風があって過ごしやすく、朝夕にカメラを持ってちらちらと散歩撮りを楽しんでいる。
このブログでも徘徊スナップのカテゴリーを作っており、暇さえあればスナップしているのだが、ふと気を抜くとカメラに説明を委ねてしまっているのに気づく。
写真を見ると、人は写真に写っている「良いもの」を探す。何か写真に撮るだけの良いもの、特別なものがあったからわざわざカメラを取り出して撮ったに違いない、と人は考えるのだ。
スマホ全盛、写真を撮ることへのためらいが写真史の中で最も小さくなった現代においても、まだ「写真があるということは、何かしら特別なものがあり、それを記録して他者と共有する意思があるはずだ」という目で見てくれる善意はある。そうでなければSNSなど成立しないのだ。
少なくともこの鑑賞側の立場は普遍的といって良いはずで、だから抽象絵画を目にした時など、自分が向けた善意が消化不良になって損したような気持ちになったりする。わけのわからない図形としてただ目を楽しませても良いのだが、ほとんどの人は意味を、つまり画家がそれを描いた意図を知りたがるのである。この出っ張りは牛の角ですか? といった具合だ。
写真は恐ろしいほどの具象の力を持っているが、その力に依存して「押せば写る、されば見える」と思い込んでしまっていないだろうか。
海の青を見て、その青は一体どんな青なのか、なぜ写真にするべきと撮る自分が感じたのかが、外形的にありありと分かるように撮れているだろうか。
撮る時点でもRAW現像する時点でも、そのことを考えながらやらねば、写真の撮影がただの作業になってしまってよろしくない。量を撮ると中身がおろそかになりがちだから、時には風景写真のように1カットに全力を注ぐ撮影もしたほうが良さそうだ。