海岸を歩く


 オフシーズンの海水浴場へ車を停め、ノートPCを相手にカタカタと事務作業をして合間にカメラ片手に散歩してみる。これが実に良い。

 眼の前は海。穏やかに波が押し寄せる音に混じって鳥の声も聞こえる。常滑の海は不思議と磯臭さがほとんどない。

 ノートPCは無線WiFiで世界につながっており、アナログの極地のような大洋を眼前にしながら、情報の出し入れは自由自在である。ノートPCに向けている視線を少し上げるだけで車のフロントガラスにシネスコに切り取られた海と空が見える。液晶画面に疲れたら車を降りてあたりを散歩スナップも可能だ。海沿いはガリガリのテクスチャが多い。

 足りないのはデスクトップPCの処理能力とローカルのストレージ、キャリブレーションされたモニターくらいだが、そこまで備えてしまってはかえって風情がなくなってしまうだろう。

 海水浴場に来ると、オンシーズンの時のざわざわ、ごちゃごちゃした人混みの余韻を感じる。元々大量に押し寄せる人を収容するために作られているところが、余計に閑散として見せるのだろう。

 山の別荘地もオフシーズンはこういう感じだろうかと思いつつ、鳥の足跡を辿ってみたりする。

 生まれて初めて海の近くに住んでみて感じるのは、海は空虚だということだ。

 海に連なって生活の糧を得ている人にとってみればその印象は大きく違うものになるだろうが、私は海から直接何かを得るわけではない。生活の糧はインターネット経由でやってくる。私の狭い視界においてはインターネットの海こそが豊穣である。だから海は毎日ただそこにあるだけの、満ちたり引いたりで少しサイズの変わる大きな空虚だ。

 しかし空虚といっても何も悪いことはなく、直接自分の役に立つものではないが、キラキラと光を反射して輝いてみたり、何もかも吸い込んでしまいそうな真っ暗闇に見えたりと様相が変わるのを眺めるのは楽しいものである。なるほど海の近くで暮らすというのはこういう感覚か、と思う。


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