こんにちは。最近よくカメラ業界がカメラの売れ行き低下で大変だ、というニュースが流れてきています。オリンパスがカメラ部門をどこか外資に売るんでは、とかね。
そのニュース、私にも一応関係があるといえばあるんですが、ないといえばありません。
もともと写真って大メーカーだけが作っていたものではないですよね。細々とやってきたところもたくさんありますし、その名残でやっているようなIlfordみたいなところも、熱心な愛好家に支えられて、まあ事業自体はよその資本に買われておりますが継続しています。
よく思うことは、コンシューマー市場に向けてデジタルカメラってガンガン売ってきたんですが、コンシューマーの皆さんは、派手な宣伝文句で売り出される各種デジタルカメラの一体どれだけを使いこなせているんでしょうか?
カメラの機能
たしかにカメラの性能が上がることは喜ばしいことなんですよね。
思い出をきれいに残すこと人類の夢でありました。昔は絵しかない、それもギリギリの生活をしている庶民にはまず不可能で(顔料が高かったり、そもそも紙が手に入らなかったり)、ごく一部の殿様クラスの人しか肖像画なんて残っておりません。
我が子、我が家族を絵に写真に残したい、見える形で残したいというのは強烈な衝動であっただろうし、これからもあり続けると思います。
ですからカメラがメーカーサイドの不断の努力で誰でも扱えるようになり、「プロっぽく撮れる」みたいな殺し文句で売り出され、普及したことは寿ぐべきことだと思います。
フィルム時代の撮影失敗の理由No.1は「フィルム装填に失敗した」だったそうで、そういった失敗がデジタルカメラになり減ったというのは誰にとっても嬉しいことのはずです。
しかし家族を撮る用途から外れた部分については、持て余している人がほとんどなんじゃないかなあ、と思うんですね。
持て余し性能
持て余したからといって悪いわけではないのですが、あまりにスペックに一喜一憂しすぎじゃねえの、と思うんですよ。
自分が食っているものの性能についてやたらと云々する割に、あなたそれ「食えてる?」って料理について思ったりします。
つまり、すごい食材を使ってどこそこの職人が……という部分にばかり着目していて、本当に料理を楽しんでらっしゃるの? と思う面があるんですね。
バブルの頃に限らず、客の料理そのものに対してでない部分の欲求を満たすために高級なレストランは内装に凝り、店員の制服に金をかけてきた部分はあり、それ自体高級レストランの機能として何ら恥ずべきものではありません。缶詰だって良い雰囲気の場所で食べた方が美味しく感じるのは事実です。
しかし「美味しく感じる」「ようわからんけど美味しいような気がする」ことがメインになってどうするのよ、と職人カメラマンとしては思うんですね。
ものを売るということは、売る側と買う側に必ずギャップが生じますし、売る側はまあ売れてくれりゃ万歳、お客さんサイドが使いこなせていなくとも、とりあえず売らなきゃ企業は倒産してぶら下がっている業者も家族も食っていけませんから、あとはどれくらい騙しを入れるか入れないかは倫理によるものと思います。
しかしほとんどすべての人が持て余す前提で機能をのっけているカメラに意味ってあるのかなあ? と思うんですね。画素数競争がその最右翼と思います。
かんたんにいえば、画素数を「トリミング耐性が高い」というのは、事実ではあるものの質の面では間違っているんですよ。
質が欲しいから使う高画素と、ただ画素数の帳尻があっていれば良い高画素では意味が違うのですが、そこを履き違えちゃってませんか、履き違えるような宣伝をやってませんか、と思うんです。
プロ機のみ市場
たまに価格コムの掲示板みたいなところで話題に上ることのひとつに、「おれたちコンシューマーが買いまくっているからプロも同じカメラを安く買えるんだ」というのがあります。
あれ違うんですよね。
プロは趣味で撮っているわけではないので、機材代もギャラに乗るんです。乗せなきゃ赤字になってしまうんで、それは趣味ですよね。その仕事に対して使う必要のある機材は、必然的にギャラに乗ります。
ですから高いカメラしか市場になかったら、カメラマンのギャラはそのぶん高くなります。手取りが増えるわけではないので別に嬉しくもなんともありませんが、順当に考えればそうでしょ。
高くならないんだとしたらやりがい搾取ですし、そのギャラの仕事には、構造のおかしさに気づかない人しかカメラマンとして残らないので、質もどんどん下がるでしょうね。
遊びで撮っているわけではない=クライアントも遊びでギャラを出しているわけではないのでギャラに対してはシビアですが、たとえば1000万円のカメラでないと撮れない写真があるのだとすれば、1000万円のカメラをレンタルでもなんでもして用意するんです。
そしてギャラなり機材使用料なりのお金でひっくるめて成立するようにするんです。
むしろデジタルカメラが普及したことにより、カメラが安くなり、カメラなんかの機材費はカメラマン持ちね、フィルム使わないから感剤費もなしね、というのがいつの間にか常識になっていますから、デジカメ普及によってプロが得しているという事実はありません。裾野は広がりましたがギャラは下がっている筈。
デジタルの手軽さにより発生した手軽な仕事というのもありますから功罪両側面がありますが、高い機材であってもそれでやるしかないのであればなんとしても機材は手に入れますから、コンシューマー市場はあんまり関係ありません。
手軽な仕事も、ある程度のギャラを維持できていた営業写真界隈に粗製乱造のカメラマンを参入させる業者が増えちゃったりと、もともとプロとしてやっていた側からすると迷惑なことの方が多いんじゃないの、と思う次第です。
流れは止められない
とはいえ、ドラッカー先生のおっしゃるように、流れは止められないんですよね。
私はどう考えているかというと、大手カメラメーカーがカメラを作らなくなっても、カメラがなくなるわけではないので、びっくりどっきりマシーンみたいな「高性能」カメラが出なくなったとしても俺は別にかまわえねえよ、という感じです。どんなに不便でもそれしかなきゃそれで撮るのが仕事ですから。
快適だから撮る、楽しいから撮るという話ではありません。選択肢があれば楽なほうを採りますけどね。
もちろん現在ある仕事がなくなってしまうということは、そこで暮らしている人たちが飯を食えなくなってしまうということなので歓迎すべき事態とは思いません。私はメーカーに飯を食わせてもらっているわけではないですから直接の利害はありませんが、単純に新しいカメラが出てくれるのは楽しいですし、テクノロジーがどこまで進むのか面白がって見ている部分はあります。
でも、それと写真を撮る営み、写真を撮ることが人生のサイクルとして機能していることとはイコールではないよね、という風に思うんです。
びっくりマシーンとしての高機能カメラが大メーカーから出なくなった時、それでも残るのが「写真を撮る」人間であり、カメラのびっくり部分を情報として楽しんでいた勢力がごそっと減るのかなあ、という気がしています。
そして、そうなってもカメラを作る人というのは必ず細々とでも存続するので、私はそのしぶとさに期待するところです。
楽しく拝見させていただいております。お伴さんの仰るとおりですね。
写真を撮る人にとっては大切な道具です、だからこだわりがあります。
ぶら下げて虚勢を張るアクセサリーにされたカメラたちを可哀想に思います。