見た目しかない奴はどこで勝負したら良いんだ問題

 おはようございます。

 今朝、Twitterから同志社ミスキャンパス女子中止のお知らせ、というのが流れてきまして、注釈的についているRTでは「多様化に配慮して、ということだが……」というので賛同しきれないなあ、というニュアンスのコメントが付いておりました。なるほど。なるほどですね(誤)。

 元ツイートがこちら。

 わたくし写真を撮っておりまして、人物を撮影するととにかく他人の見た目ばかり扱うことになりますから、このへんについては難しいものがあるなと日頃から感じています。

見た目を扱う

 人間は情報のうち8割程度を視覚から取り込んでいるそうでして、なるほど私たちは見た目にやたらと左右されます。かき氷が実は何味だろうと味はすべて同じで、香りだけが違うという話に通じるものがあるな……と思うくらいに人間は見た目で簡単に騙されます。

 これは人類が生き延びる過程で身につけた動物的な本能なんでしょうね。「なぜか蛇を怖がる人が多い」みたいなもので、理性の部分とは切り離して捉えるべき習性ですが、習性というくらいなので当然のものとして身に備わってしまっています。

 職業として写真を撮るということは、まさにその見た目だけを抽出して情報をコントロールすることでありまして、かんたんにいえば写っている人が笑顔なのか怒り顔なのかで、伝えられるメッセージが全く違うものになることは皆さん想像がつくところと思います。何かしらの商品を売る上で、その商品を持っている人の美醜や社会的な認知度は売れ行きに大きく影響することからパブリシティ権というのが設定されているくらいでして、見た目の美醜は社会的に価値を持ってしまうということがいえると思います。

他の能力

 ミスコンについて私がどう考えているかというと、あれは見た目の美醜だけを競う場になってしまっているじゃないか、女はお飾りでバカで良いっていうことかこの野郎、という批判をかわすために見た目以外の審査基準があれこれ追加され、やれ語学だ学歴だボランティアだ、というような付加価値もありますよ、と勝負するポイントを増やしているように見せているだけで、私自身としてはひたすら美醜だけを競う場でも良いじゃねえの、という風に思っています。

 ただ美醜は主観に強く左右されるので、世界規模の大会になればなるほど、開催地有利になってしまう部分は間違いなくあるよなと思いますし、写真の世界でもフォトコン的なサイトを見てみると、評価されやすいという点でモデルは白人が圧倒的に有利で次に黒人。アジア人はエキゾチックな珍しいもの扱い、という白人世界での順位がそのまま反映されてしまっているのを見ると、なるほど審査する側の好みがモロに出てしまって、これは博物学的な価値観からまだまだ抜け出せそうにないな、と思ったりします。

 私たちは明らかにアジア人なのですが、写真世界を見ているとその白人の主観によってどういうモデルが好まれるか、というのを無邪気にすくい取り、そこに合わせて写真を撮りに行くようなスタイルが人物を作品として撮っている、という人に多く、写真というインスタントに始められるものだけに文化的な成熟とはどうしても縁遠くなるな、という印象をぬぐえません。

 ただ写真の世界の基準でいえば、写真を見慣れた人であっても

  1. 見た人が生活の中で培ってきた常識
  2. 写真としての技能の判断
  3. 社会的に「そうあるべき」評価

 という順番で写真を評価するのが常識であり、私はそれで良いんじゃないのかなあ、と思います。

 ミスコンの世界であれば、ぶっちぎりに美しい人がいても、白人世界で最近尊ばれているダイバーシティだのインクルージョンだののポリコレ的な部分に賛同しない人であったり、お文化的なところが弱い人であれば評価が下がってしまうんですね。私からするとそれは欺瞞でしかないと思います。そもそもミスコンって「beauty pageant」ですからね。ミスもコンもありません。

 映画「Miss Congeniality」ではそのあたりのところをコメディタッチで描いており、バカにしながらも愛情を持って見守る視点の良い映画でした。邦題は認めません。

見た目で評価されたくない人

 ただ見た目の美醜というのは非常にセンシティブな問題です。

 よく言われる、ミスコン批判に対して「見た目以外に取り柄がない人間が有利に戦う武器を取り上げるのか」という点については、たしかに他の能力、たとえば俊足だとか知能が高いだとかコミュ力が高いだとか、そういったものと同じに扱うべき、と言われると、なるほどその通りと思ったりします。

 しかし見た目の特異性は、本人がよほど注意深く隠さない限り、見た目の美醜は勝手に漏れ出して他人の評価を得てしまうところ。これは美でも醜でも、作用の方向は違えど同じこと。

 俊足の人は走るのを見せない限り評価されようがないのに、見た目の美醜については人に会えば会った数だけ勝手に評価が下されてしまうところが厄介と思います。そしてその評価が、脚が速い遅いについては特定の場でしか評価の基準にならないのに、美醜については人生の選択肢ほとんどに影響を及ぼしてしまいます。

 美男美女が得をしてしまうのは厳然たる事実であり、これは「当人が望まないとしても」であるとか「当人は得をしているのに気づかないままだったり」というような当人の自意識、自認も含めややこしい問題です。また周囲の人たちも見た目とそれ以外の評価を結びつけてしまいがちですから、問題はさらに厄介さを増して行きます。

美醜と他の能力の評価が連動してしまう

 インターネットの素晴らしさの一つである「言語化能力さえあれば誰かが考えたことが見た目の美醜関係なく世界の誰かに伝わる可能性を得ることができる」ことはそういった点から見た目が美しかろうが醜かろうが頭の中身だけで勝負する機会が得られた、という点で様々な人を解き放った功績があると思います。

 これほど美醜と関係なく何かことを成せる場がどれだけあるかと考えると、美醜と関係なく評価をするべきだ、しないとまずい、というコンセンサスを参加者全員が保持できる場以外にないと思います。そして世の中でそんな場はほとんどありません。

 これは何かしらの評価を下す場で、その場が扱う特定の能力と美醜など他の能力の評価が混じってしまうことを嫌う場合のみ起きることですが、学会のような場以外ではまずありえないでしょうね。

 たとえば見た目で差別することをルッキズムと呼びますが、ルッキズムを扱う人たちの間でも、学術の世界を離れて巷のレベルに近づけば近づくほど、ルッキズムが作用してしまうことは間違いなくあります。それはルッキズムを否定する人たちにとって徹底的に糾弾すべきことですが、人間はそういう動物なので確実に起きてしまいます。見た目が良い人の意見の方が真っ当に思えちゃうという作用です。

 自分の生育環境から身についた常識に気づくこと自体、私を含め普通の人間にとっては並大抵のことではなく、ルッキズムもそこに含まれています。そういう意味では反差別論者が差別するのは何も珍しいことではありません。むしろ生き物は一定の知能を得ると必ず差別しますから。

 もちろん人間が獣の部分で本能的に選択してしまうことをすべて是とすれば、この世は室町時代以前の暴力で全てが決まる北斗の拳のような世界になってしまいますから、欲望や本能をどう上手くコントロールするかが重要であり、見た目での判断および見た目と他の能力を結びつけて考えるのはやめましょうという意見そのものは正当です。

 ただミスコンのような場については、見た目だけを評価すれば良いじゃないの、と思うんですね。望んでその場に挑んでいるわけですから。

 ミスコンで勝ったからといって見た目以外にも優れた人であるという証明にならなければそれで良いじゃん、と浅薄にも思います。むしろ女性の世界ほど、ファッションモデルとして名を挙げた人が、一定の年齢に差し掛かるとファッションモデルとしての能力以外で商売をはじめ、とつぜん育児論をぶち始めたりして、周囲もそれを有難がって聞いていることが多いように感じられて不思議な気持ちになることが多いんです。

写真はルッキズム以外なにものでもない

 写真には残念ながら見た目しか写りません。カメラのパラメーターをあれこれいじくったりできますし、背景にあれこれを加えたり引いたり、という情報の操作もできますが、見た目しか写りません。

 社会的には「見た目だけで評価しちゃダメ」というのが流行ですが、そこを突き詰めていくと写真は成立しません。写真はただ押せば写るものではなく、どんな情報をどんな風に盛り込んで、と第三者が鑑賞することを前提に緻密に設計していくものであり、それらはすべて見た目のためです。

 もちろんその見た目の中にも様々な方向性があり、例えばおじさんをキラキラ可愛い女子と同じ方向で見た目を整えても気持ち悪くなってしまいますから、おじさんがおじさんなりに素敵に見えるように持っていくわけですが、それだってひたすら見た目の問題でしかありません。

ジャポネスクをやってみた時の凛々奏さん。

 私からすれば「写真に人間性を写そう」みたいな写真撮影術は主観と客観、原因と結果を混同しているに過ぎず、人間性が写真に写ってしまうのだとすればそれは第三者が写真を見た際に勝手に感じた、という結果論でしかありません。

 だからこそ、見た目だけの評価というのも、あらゆる能力の中のひとつとして尊重するべきと思います。

 結論として「あいつ凄いバカだけど見た目だけは超絶に良いから見た目でガンガン稼がせてやろう」と「あいつ頭おかしいけど数学にだけは天才的な才能があるから好きなだけ勉強させてやろう」が同時にある世界が素晴らしいと思います。「実は数学的な才能は大したことないんだけど、とにかく見た目が良いから数学もすごく出来るって評価しちゃう」がダメ。

 というわけでまた。

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