花は宿題


 気づけば季節が一巡して、先年と同じ花を撮っているのが西東京での暮らしだった。

 コロナ禍のおかげで最後の2~3年はゼラチンの中にいるような茫洋として区切りのない暮らしだったが、その中でも近所をうろうろして路地の花を撮るのは継続しており、花の移り変わりで辛うじて季節を感じることが出来た。同じように咲く花の変化で平坦になりがちな暮らしの中にアクセントを求めた人は多いだろうと思う。

 花は思うように撮れない。ふと気づくと咲いており、次に気づいた時にはもう枯れている。

 いつも振り返ってはああすれば良かったこうすれば良かったと後悔ばかりしているが、飽きもせず毎年同じ花を撮っているとじわじわ何かが分かってきたような気になる。仕事の撮影であればもっと短時間で要素を詰めるか、上手い妥協点を見つけないといけないが、遊びでやっていることだから毎年何かしらの発見があれば良いのである。そういった意味でまるで宿題のようだと思う。

 木石といえば人情の分からない奴を木石漢と呼んだりするように無機的な扱いだが、花は語呂の関係もあるのだろうが花鳥風月と麗しいものの筆頭扱いである。木はダメで花は良いんですか、と食ってかかってもしょうがないのだが確かに花は咲いているだけで被写体になる。

 他の被写体であれば、人物であれ建物であれ、すべて朽ちていく過程を切り出す形になるのに、花だけは毎年新しい。朽ちていくのは撮っているこちらの方である。だから花を撮る宿題は、こちらの変化を記録しているようなものだ。

 私自身は猫と同様、写真を撮り始めるまで、それこそ地球上に花というものが存在するのは知っていたものの「だからどうした」という扱いだった。花が咲いたからといって生活の何が変わるわけでもなく、よほど意識しなければ咲いていることにすら気づかなかったが、人間変われば変わるものである。

 常滑に引っ越して来たのが昨年11月、現在2023年の8月だからもうじき一年だ。常滑のどこでどんな花が咲くのか、脳内花マップを埋めていくのも楽しみの一つである。


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