ポトレ写真でコミュニケーションが成立し辛い理由


 前回のブログ以降、延々とポトレ写真について考えていた。

 ポトレというのはポートレートから派生した言葉で、若い女性を被写体にしたもので、結果として誰に向けて見せることを想定して撮られたかよく分からない、なんとなくかわいこちゃんが撮りたかったのかなあ、という写真のことである。instagramの”ポトレ”タグを見てみると分かりやすい。

 撮る側からすれば「若い女の子を可愛く撮りたい」が目標といえば目標で、撮られる側の目的は概ね金銭か自己顕示欲を満たすためであることが多い。目的はふわっとしていてよく分からないが熱心に撮りたいと言うなら、というのでサービス業化している人もたくさんいる。私からすると、インフルエンサーとしてSNSで戦うために良い写真が欲しい、というような戦略的意欲的な人のほうが好きだが、その数はあんがい少ない。

 実際にやってみると、業として人物写真をメインで撮っている私でも、若い女の子とキャッキャしながら何かをしたような気持ちになれる趣味として無責任で楽しく、のめり込む人の気持が良くわかるが、写真世界の中でも扱いに困るジャンルの一つである。

 ポトレ世界ではポートレート本来の「被写体がどういう人物であるか説明する」目的はすっかり忘れ去られ、写真芸術的な要素が入り込む余地はほとんどない。撮って楽しい、すなわち撮影現場での活動が目的であって、そこで誰かの人生を変えたり社会に不条理を訴えかけるアート作品を作るのが目的ではない。

 だからポトレ写真は撮影者と鑑賞者の間にコミュニケーションが発生しにくい。鑑賞するためのものとして作られていないのだから当然である。下手をすると撮影者と被写体の間にすらコミュニケーションがない。これは恐らく、ポトレ写真だけが持ってしまう特殊な性質だろうと思う。

 逆にいえば、そもそも写真は本来、撮影者と鑑賞者の間のコミュニケーションのために撮られるべきものなのだ。撮影者と鑑賞者であれ、現在の撮影者と未来の撮影者であれ、写真に詰められた情報を基に、ときに飛躍もしつつやり取りするのが写真を作る大目的である。

 風景写真趣味であれば、撮る側の意図がどうあれ「富士山に感動したから写真を通じて他の人にも見せたかったんだろうな」というように、その写真に鑑賞させる意図があったと勝手に思われやすい。鑑賞者がその富士山を興味深く見ることができれば立派にコミュニケーションは成立している。

 だがポトレの場合、被写体は芸能人でも有名モデルでもない「どこかの見知らぬ女の子」でしかない。伝わるのは「若い女の子がお好きなんですね」くらいのもので、それ以上のコミュニケーションが生じにくい。例外は被写体が驚くほど可愛い場合のみであるが、それは写真技術とは直接関係のない話である。

 例えるなら、料理を作るぞ、と言いながら食材を切るのだけが楽しいと言っているようなものである。「食材を切ること」を独立した芸事として捉えるのであればそれなりに評価も生まれるが、普通、切っただけでは料理にならない。
 だからそこへ料理を食べに来た人が、切っただけの素材を出されて戸惑うのも想像に難くないだろう。写真を見る人は善意から「何か言いたいことがあるに違いない」と写真を見るのに、そこには若い女子がただただ写っているだけで他に伝えたいことがあるように見えないから戸惑うのである。
 被写体が可愛いから写真らしく見えてしまうこともあるが、それは元から何もせずとも美味いバナナの皮をむいて「さあどうぞ」と言われているようなもので、そこに写真ならではの表現が働いていなければ、これもストレートに料理とは呼べない。

 突き詰めて考えてみると、そうなる理由は撮影者がほぼ男性であり、被写体を求めた際に「なぜその被写体にするべきか」を考えず、本能の赴くままに「若い女!」と被写体女子を撮るからで、しかも撮影は鑑賞者とのコミュニケーションを目的にせず、撮ることそのものを目的に、撮る側、撮られる側の都合で進んでいく。
 設計なしに現場の作業員の都合だけで建てる住宅のようなものだ。各部はそれらしく作ることが出来ても、住みやすい家にはならないだろう。

 私の移り住んだ名古屋圏はポトレ以外の写真ジャンルがほぼないような状況であるから、その考え方が当たり前として受け継がれ、お作法化している可能性が高い。謎のふわふわフィルター写真が典型である。

 だから私が名古屋に住んでやるべきなのは、そのお作法をひとつひとつ「当たり前ではない」とひっくり返して回ることなのだろうと思う。

 どれだけやっても「切るのだけが楽しいんだから放っておいてくれよ」「むしろ目覚めさせないでくれ」という人が多数であり続けるだろうとは思うが、一部は名古屋エリアで生まれ育っていてもポトレ的な考え方、撮り方が当たり前とは思っておらず、しかし具体的に何をどうすれば先に進めるのか、分からないでいるようだし、実際にそういった要望もよく聞く。東京開催のワークショップにわざわざ参加してくれる人もいたくらいだから、意欲も高い。

 ポトレ的であること、女子が可愛いことを目指す写真のありかたが間違っているわけではない。それも一つのジャンルとしてあって良い。ただ、それ以外にカメラ遊びがない状況はわたし個人として面白くないので、勝手に写真技術を説法するのである。

 9月30日のワークショップに続き、10月後半にも何か人物撮り関係のワークショップを仕込むことにしよう。

写真は”何を撮るか”以外の方が大事。

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