写真文法


 出身地である名古屋圏に居を移して1年の四分の三が過ぎた。その間にあれこれ情報交換して名古屋の写真事情、ポトレ事情が分かってくるにつれ、通常の写真教育をしても埒が明かないのではないかという気持ちになってきた。市場があまりにポトレに偏っているからだ。

 ポトレ撮影はなかなかの人口が楽しんでいるようなのだが、根本である「写真」がどういうものかいまいち認知されていないらしく、可愛い女の子が好き、というのとカメラが好き、というのが直結した人がほとんどで、そこへいきなり写真の話をしても通用しないのである。

 シャッターボタンを押しさえすれば撮れる手軽さがカメラ趣味の魅力だが、だからこそかなりの作為を以て要素を盛り込まないと「写っちゃった」以上にはならないのが写真の難しさであり、名古屋ポトレは写っちゃった度合いが非常に高いのである。白いキャンバスがゼロ地点としてそこにあり、何を描くにも画家の意志が100%反映される絵画との最大の違いはそこだ。

 写真を抜きにしたカメラ遊びが常識になってしまっているのを疑わないのであればそれではそれで幸せなことだが、インターネット時代の今、SNSを通じてよその地域で生み出される写真と何かが違うのは、ある程度勘の良い人であれば分かってしまう。何かにつけ独自性の強い名古屋とはいえ、その状況にもどかしさを感じている人は明らかに一定数存在している。

写真文法

 写真文法はどんなジャンルの写真であっても「被写体が写っとるな」で終わらず、鑑賞に耐える深みを与えるために必要なものである。逆にいえば(日本語としては変なのだが)その文法がある写真が「写真らしい写真」だ。これは私が勝手に造った言葉である。

 写真文法は視覚言語の一種であり、道路標識の意味が免許を保持しない者に通じないことがあるように、写真文法も知らなければ写真に盛り込むことは難しい。ただ標識と違うのは、写真文法、すなわち写真らしい表現を伴った写真は、それを学んだことがない人間にも「何かが違う」と無意識に働きかけることが出来るのである。でなければ商業写真の存在意義はない。商業写真は写真文法を巧みに使って消費者の無意識下に働きかけ、ものを売りつける特殊な技術職である。

 それは構図であり、光の選び方、使い方であり、後処理であり……枚挙に暇がない。写真を撮る実作業のほとんどは最終的な絵を構成するために行われるし、その過程で写真を写真らしく見せるための選択と判断が入り込むのだ。

 私も先の記事で12年前の写真を振り返ってみたところ、被写体を形のみでとらえた写真ばかりで、光で構成したものがほとんどなかった。写真文法に馴染んでいなかったのである。

写真文法で岩すら写真の題材になり得る。

機会

 いわゆるポトレ撮りされた写真を見ていると、写真的な要素が盛り込まれていないものがほとんどである。眼の前の女子をそのまま写しており、そこには解釈もなければ写真ならではの修辞もない。日中シンクロなどのテクニックが加えられていることはあるが、それは修辞というより「やってみたかった」の類であり、おおむね表現と関係がない。
 特に名古屋発信のものはそれが顕著で、そうなってしまう理由はどこにあるのかと考えていたのだが、理由は単純、教わる機会がないのである。

 勝手に上手くなって勝手にプロになるような人間の場合、教わる機会がないことはさして問題にならない。本当にやる気があれば自分で居住地を変えてでも追い求めるものだからである。私も本格的に写真の道に入る決意をすると、すぐさま名古屋を飛び出して関東を目指した。
 だが趣味で写真を楽しんでいる人は本業が別にあるわけで、そう簡単に居住地を変えるわけにいかないだろう。趣味でも真剣な人は真剣だ。であれば、インターネット越しではなくリアルの場で「写真を」教わる機会を提供したい。

 来月末に行うワークショップは、場としてはポトレを撮る設えにしておいて、一度受講者諸氏に思うように撮ってもらい、しかる後に私が同じ環境で写真文法を載せた構図をがっちり決め、そのとおりに撮ってもらい、何がどう違うのかを彼ら自身の手と目でまざまざと感じてもらう企画である。

 と、このブログを書いている間に定員に達してしまった。当初想定していた運用を再検討し、より密なものになるように定員を12人から10人に変更したこともあるが、他のジャンルのワークショップと比べると非常に速いペースで席が埋まってしまった。これは名古屋のポトレ人に期待されている証左だろうと思う。近いうちに第2回を開催しよう。

 まずは9月30日のワークショップ開催が楽しみだ。


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