的が欲しい病気


 年がら年中そこらをうろつきながら写真を撮っていると、通りすがりの人に何を撮っているのか尋ねられ、とっさに答えられないことがある。

 影、コンクリートなど、正直に答えても理解されないことが多い。それを繰り返しているうちに、言ったところで……となってしまう。調子の良い時は「影だよ影! かっこいいでしょ」と勢いで迫ることもあるのだが、狂人扱いされかねないので相手を見てやるようにしている。

猫は納得され易さナンバー1

 数年前、あれはコロナ禍に突入する寸前だったか、池袋で通りすがりの中年カップルの女性の方から「そういう(よくわからない)ものを撮って作品にするのがアートなのか」というようなことを聞かれて、「これを撮ること自体に意味はなく、撮ること、見ることでコミュニケーションが成立すること、またはその試み自体がアートという理解でいますが」と答えたのだが、やはり全く理解されなかった。

 同行者の男性には「なるほど、そのコミュニケーションを指しているのね」という感じで話が伝わったようだが、その男性のようにスッと理解してくれる人は稀である。

 写真をやらない人からすれば(下手をするとカメラをやる人であっても)、被写体そのものが写真を成立させるための要素としてほぼ100%を占めていると理解するのが常である。つまり鳥が写っていれば「この鳥を見せたいんだな」と思い、風景が写っていれば「ここへ旅行に行ったんだな」と思うもので、撮影している人を見かければそこに自分が理解できるような撮影対象たり得る何かがあるに違いない、と思うものなのだ。

 通りすがりの人が私のレンズを向けている先を見てみても、そこにはコンクリートの壁しかなかったりするから不思議に思うのは理解できる。
 ただ、猫なら納得出来るがコンクリートの壁では納得できない、というのは私の都合ではなく、撮る私を見ている人の勝手な都合である。

 言い換えれば「何が被写体であれば写真が成立するのか」ひいては「写真は誰にも分かる明快な主題を扱わなければならないのか」という大きな命題を引き出してしまうのだが、料理人が美味しくもない料理を出してきて「これは料理史の中では非常に意味のあることなのです」などと言っても理解出来る人間は少ないだろうし、私も単に不味いのだから納得しないだろう。

 もともとこちらは特定の何かが撮りたくて写真を始めたわけではなく、単にレンズを向ける何かが必要だから、というので手当たり次第に撮り散らかすところからスタートしている。結果として猫や影やコンクリートの壁が写真にしてみたら面白かったので継続して撮っているだけだ。

 こうした「何でも良いが何か写真にした時に面白い被写体が欲しい」という欲望は、特殊ではあるが間違いなく一定の人数が抱えているものである。


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