この日は打ち合わせがあって日比谷の帝国ホテルを訪れていた。
用が済んで外に出ると日が暮れかかっていた。天気は終日曇りだが夜になってしまえばこちらのもの。都心は人工光で溢れている。
日本じゅうで1,2を争うほど清潔で人口的な一角を東京駅のほうへ進む。数年間訪れていない間に日比谷のあたりもだいぶ変わったが、ふと右を見ると通りの向こうに銀座の街並みがあった。
繁華街のどこを見て「その街」と認識するか考えてみると、他人の撮ったスナップ写真で刷り込まれている部分が大きいのかもしれないと思う。なにせTwitterをやっているだけで、毎日大量に東京の写真が流れてくるのだ。
写真をやる前はどの街がどんな見た目だろうが一切気にしていなかったのが、写真をやり始めた途端にスナップに行くなら、人物撮りのロケ地として、などとさもしい目で見ている自分に気づく。
あんがい東京全体のイメージというものも、そうした街角を切り取った写真の集合で作られているものなのかもしれないと思いつつ、ニューヨークといえば? 北京といえば? ホーチミンといえば? と、行ったことのない都市のイメージを頭の中に描いてみると、ほとんどがランドマークで占められている。スナップ写真よりも、むしろ絵葉書写真の方が都市イメージの形成には寄与しているらしい。
行きつ戻りつしながら写真を撮る。
気温は30度を切ったくらいで肌がべとべとと不快だが、暑いというほど暑くもない。そんな中、日が暮れたばかりだというのに飲む場所を探して人々が往来していた。元気なものである。
考えてみれば夜に明かりを点ける店は酒を飲ませる店がほとんどだ。本当に誘蛾灯のように客を吸い寄せる。実際どこも繁盛していた。写真を撮る私はそこから漏れてきた光を息を殺して撮るのみである。
しばらく歩くと銀座に入っていた。
銀座はいかがわしさを懸命に覆い隠そうとするかのように、金属、ガラスなどあらゆる素材を使ってキラキラと建物や店舗を装っている。おかげで銀座の色は特別だ。他では出ない色をしている。
銀座に限らず、どこかの街へ出かけてコンビニ以外どこにも入らず、ひたすら光を記録する作業に専念するのが常である。何も特別な考えがあるわけではなく、それ以上に面白いことがないのである。そうして黙々と作業としての撮影に徹していると、自分がどうしてそこにいるのかだんだん分からなくなってくる。それが楽しい。
路地裏を中心に1時間ほど撮り、飽きたのでまた日比谷へ向かうと、サラリーマンらしき人々が往来を歩く姿が目についた。恐らく銀座ではなく周辺の街で働いているのだろう。
上京した当初は東京駅周辺の距離感に驚いたものである。丸の内、有楽町、新橋、銀座などなど、なんとはなしに耳にして覚えてしまっていた地名が、歩いて回れる距離に集まっているのだ。
そしてまた日比谷に戻る。やはり銀座と比べると日比谷は少し大人しい。
車に乗って自宅へ帰りながら、メトロポリスとしての東京や、その中の繁華街群が、遠く離れて思い返し、その名前を呼ぶ時に不思議な感傷を帯びることがあるのを思い出した。それは多少なりとも憧れをもって上京したことのある人間にしか感じることが出来ないものなのかもしれない。と同時に、現在東京に住んでいる人間には、遠くからぼんやりと街の明かりを眺めるような感傷を持っている暇はない。ただ生き抜くのみである。
この日のスナップでは、ただ光を記録しているつもりでいて、いつの間にか人々の営みも写し取ってしまうのが写真の面白さの一部であることを改めて思い出した。