AI企業は写真との境界を溶かすに決まっている

 先日、Facebookを眺めていたら、写真家と名乗りながら「AI併用」とプロフィールに表記しているアカウントを見かけた。

 リンクされているインスタに飛んで見てみると、当初はただのポトレを撮っていたのが、途中からガラッと変わって、恐らくかなりAIの力を借りている、というより、最初からAI生成したのに近いレベルでやっているな、と思しき「作風」に変化している。

 その手法について、私は価値の判断をしないので何かアクションをとることはないが、世の中は雪崩を打つように写真の価値を毀損する方向に進んでいるし、私には止めようがないことを改めて痛感させられた。止めるべきと考える人も少ないように思う。免疫が働いていないようなものだ。

 AI生成画像は写真ではない。

 二次元の画像データであることはデジタル写真であろうがAI生成画像であろうが変わりはないが、「写真」として限定するのであれば、その核心は「写っているものの実存との紐帯」に他ならないのだから、その紐付きが緩い、遠いものが写真でなくなっていくのは自明である。

 写真はカメラを使ってよく出来たまがい物を作る仕組みであり芸事であるが、だからこそ、そこに写っているものが「あった」ことをその価値の核心に持っている。「写っているように見えるが、実はない」のでは写真とは呼べないのである。

写真の裏にある実存の重みは、二度と人生が交錯しない旅先のスナップでも強く感じられる。

 写真は「そこにあったもの」に、光源から放たれた光子が当たり、跳ね返ってきたものをレンズ越しに記録する。ネコチャンであろうがマッターホルンであろうが、そこにあったからこそ光子は当たり、撮影者の元まで飛んできたのである。なければ光子は反射しないのだから写らない。

 このことが、写ったものは、少なくとも写った時点でそこに実体があった、実在していたことの証明になるのである。それが「ない」のが生成AIなのだから、写真であろうはずがない。

 後加工に対する立場はRAW現像すら認めない、いやいやデジタル自体が「間違っている」のだ、などなどさまざまな立場があり、むしろ2026年に至っていよいよデジタル写真もそれが台頭し始めた頃のフィルムのようなポジションになってきたのか、と感慨深くないわけでもないのだが、今後、フィルムとデジタルで論争していたようなことがおままごとに見えるくらい、社会が写真の価値を奪い取ろうとすることは間違いないし、またその急先鋒は間違いなく生成AIである。

 AI生成企業は使わせれば使わせるほど儲かる。営利企業なのだから儲けようとするのは当然のことだ。ハードウェアもソフトウェアも何のために投資をするかといえば、生成1回毎であろうが月額であろうがオプションであろうが、要は有料で使わせて投資を回収し、さらに儲けるするためにやっている。

 つまり「生成AIを使わせたい」のであって、写真との共存など、学習させるための養分として以外に価値を見出していないのが当然である。著作権、ひいては作家性や財産権など主張しないでくれたほうがAI企業は間違いなく嬉しい。

 生成AIを使わせるためにはどうすれば良いか? 私だったら写真とAI生成画像の境界が曖昧になるよう世論を誘導していくだろう。インフルエンサーを起用しても良いし、その界隈の学者に喋らせても良い。金で転ぶ奴はいくらでもいるのだから、金品を渡して言いたいことを言わせれば良いのだ。

 たとえば、「どちらも表現ですよ」「どちらもクリエイティブ」というようなきれいな言葉で語らせ、AI生成画像と写真の差異がないかのように、その差がなくなっていくように誘導する。さらには経済面で「より安いのはAI」「美しい人を起用してもモデルリリースや交通費、弁当代やヘアメイクに衣装代も必要ありません」と推したりするのも有効だ。

 なにせ既に美容院が自分の店の宣伝に使うスタイル写真をストックフォトで調達する時代である。写真の裏にある実存、「私はこのスタイルを作る技術を持っています」という裏付けを自ら放棄して利便性のみ求めているのである。この流れの先にAI生成はある。

 カメラを弄び、SNSでいいね集めに熱心であっても、写真に興味がない者など今どきいくらでもいる。そうした層からどんどん切り崩して、写真もAI生成も一緒、という風潮に持っていくのは難しくないだろう。
 なにせ写真側は業界団体すら、ボンクラ揃いで社会に対して何の動きも見せない、逃げ切り老害ばかりの集団である。

 先のAI併用型写真家などという怪体な肩書は、単に自己顕示欲に最適化した行動なのは間違いないが、結果としてそれは写真側が核心かつ最後の砦として墨守すべき、実存との連携を自ら破壊する獅子身中の虫である。

 写真はヨドバシでカメラを買ってくれば今日からでも写真家を名乗れるルーズさが魅力でもあるが、界隈はいま一度立ち止まって考えてみるべきだろう。そもそも過度のレタッチを「作品だから」と許容するのも、生成AIと同じく実存との紐帯を補足する行為に他ならないのだ。見直しの時期が来ているのかもしれぬ。

 とは思いつつ、私自身は自分のルールで、身の回りと自分自身の実存の記録をとりつづけるのみである。そもそもスナップで人が写り込むのも、ポートレートを撮るのも実存の記録という立場から一歩も出るものではない。表現などというものはおまけ程度であって、質量を持たない。

 実存の重さに対して吹けば飛ぶような存在だが、だからこそ面白いと思えるのが写真表現である。


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