自信と覚悟が足りないんだなあ


 皆さんお元気でしょうか。今日は台風11号が近づいてきているそうです。
 台風の名前は各国持ち回りで名前を付けて……みたいにやっていたと記憶しておりますが、呼び辛いからか最近は号数でしか目にしていない気がします。

 やっぱり覚えやすい名前って日本語圏、英語圏、ぎりぎりフランス語圏くらいが限界で、それ以上耳慣れない言語圏の名前だと、教えてもらっても覚えられないですね。詳述が気象庁のページにありました。

 気象庁の解説によると、アジア地域で140の愛称を出し合って、それを大体5~6年の周期で干支のように使い回しており、日本は子犬や山羊のように星座由来の名前を出しているそうです。なんで星座なんでしょうね。忍者とか将軍では攻撃的すぎてまずいんでしょうか。

 よその国が出した名前を眺めてみると、ジェラワット、キロギー、マリクシ……悪いんだけど普段慣れ親しんでいない語感なので、まったく覚えられません。その言語の素地が全く無いから脳が覚えにくいみたいですね。ドルゴルスレン・ダグワドルジくらいかっこいい名前だと、相撲に興味がなく、モンゴル語が全く分からなくても覚えてしまうのですが。

さて

 最近、取材撮影が全然出て来ないままカメラだけ更新しておりまして、そのあたりは別の記事でもお知らせしている通りです。

 そんな中、宇和島で取材撮影させてもらった経験上、やっぱりこう、どうしても親切になってしまうのが良くないなあ……という気持ちが強くなっています。せっかく取材を受けてもらったんだから得してもらいたい、という商業カメラマンとしての気持ちが強過ぎます。

 そのあたりのゆらぎというか迷いは文章にも表れるもので、観光ガイド的なものには興味がないと言いながら、どうしても読者の皆さんには取材先の地域を良いところと思ってもらいたいなあという気持ちが混じってしまいます。良い人を演じてしまうんですねえ。別に自分で悪い人とは思っておりませんが、良い人を演じている私を見てもらうためにブログをやっているかというと、多分そうではありませんからコンセプト上「違う」ということになります。

 過去の例でいうとウラジオストクくらい縁遠いところであれば、こちらは勝手に写真を撮りに行っているだけなので、私の文章を読んだ人がウラジオストクを好きになろうが嫌いになろうがそれは受け取り手の感性の問題でしょ、という気持ちでいられるのですが、国内かつ取材の申込みをして受けて頂いて、とやっていると、どうしても相手に良いようにしたいなあ、という気持ちが振り払えません。

 これは商業カメラマンとしては正しいのでしょうが、写真家としては邪心です。よこしま。

邪心

 写真家だからといって写真で他人を傷つけて良いのか、というのは大きな命題で、当世の世論というやつに照らし合わせてみれば「傷つけるのはダメ、絶対」になろうと思いますが、アートとして写真を撮るのであればそこには世間と違う論理が働いており、人権を蹂躙しようがその罪を背負おうが歴史に名を刻むんだ、という決意を持った人には世論など通じません。

 ある意味では、当事者同士に最低限のコンセンサスさえあれば、それで成立してしまっても良いんじゃないかと思うところもあるんですね。そうやって誰かの権利を侵害して出来た素晴らしいアート作品なんて、それこそ腐るほどあります。

 国であれ地域であれ人脈であれ、ひとつ境界を超えてしまうと常識が根底から変わってしまうのはよほどの世間知らずでなければ生きている間に経験していることで、場所にせよ時間にせよ、よそから批判するのは簡単ですが、その批判している立ち位置自体実はグラグラ揺らいでいるものしかないんですよね。

 現代日本の人権感覚からすれば「人に優しく」「個人の権利を尊重しよう」が尊ばれるのは理解できますし私も大いに賛同するところですが、時代により場所により、たとえば集団の生存のためにそんなことを言っていられないこともあるわけで、それを自分の権利が誰かに確保されている状態で非難してもただの卑怯プレーでしかありません。

 勘違いしてはいけないのは、ベレー帽をかぶっている「から」芸術家になるわけではないように、他者を傷つけたから良い作品になるわけではありません。ただ、社会に何か作品でもって投げかけようというのであれば、誰かを傷つけてでもやり切る覚悟を決めなければいけないのかもしれません。

 現在の私は商業カメラマンが作品も撮っています、みたいな自分が最も忌み嫌う半端なポジションにいるもんですから、被写体や関係者を傷つけないまでも、気分を害する可能性は出来る限り避けたいなあ、避けられたら良いなあと思いつつ、しかしながら廃墟だの廃村だのガリガリだのを撮っていればその所有者や近隣の住民の皆さんは不快になる可能性もあります。

 写真を撮る以上は誰もが気持ちよくなれるように絶景系でなければならぬ、と言われたら私はカメラを置いて立ち去ると思うのですが、かといって写真を撮って発表することで誰かを傷つけたいわけでもない、というアンビバレントとまで言わないものの中途半端な状態になっているわけです。

所有者の方ごめんなさい、でも最高のガリガリ。

利用

 写真は被写体なくして撮ることが出来ません。被写体になった誰かや何かを利用する面が間違いなくあります。その攻撃性というか他害性は昨今の日本では非常に強く感じられるところですが、とかく世間はグレーゾーンで成立しているようなものであり、上手く言い訳が出来て聞いた人がその場で納得してしまえばそれでOKという側面もあるので「上手く利用しよう」みたいな形でなんとか毎日誤魔化している次第です。

 現代日本では写真がもたらす良い側面を、とってつけたような幸せ写真みたいなところ以外で感じにくいようになっているので、よけいに撮る側ばかりが被写体を利用してしまっているような、加害妄想じみた感覚を持ちがちです。こういうのは持ったほうが良い人が感度ゼロだったりするのがまた難しいところ。

 仕事であれば、被写体自身が撮られたいと思っているかどうかは分からないものの、撮影を依頼する人は間違いなく「撮ってくれ」と思っているわけで、そこと被写体の間で何かしらの対価をもとに合意が形成され、撮影に臨んでいる筈です。

 そうなると私は一気に気が楽になってのびのびと写真が撮れるのですが、それは「撮って良い」と約束された場にいるからであって、自分が写真を撮る行為になにかの価値があるから、と認められている、と自分が感じているわけではないからなんだなあ、と思ったりします。

 自分が頼んで撮っている取材撮影であっても、自分の写真に図太く自信を持っているのであれば「この俺が撮るんだから、その時点でお前は得をしているんだぞ」と押し付けるくらいのマインドが必要なのかもしれません。かなり嫌な感じですが、作家をやるのであればそれくらいの自信がなきゃ作品に価値を感じさせることは難しのだろうなと思います。

 私が自分自身で価値を感じている、また他者に認めさせ得る可能性があるのは飽くまで技術の面であって、その技術に感性の部分も含むのは間違いありませんが「どうだこの野郎」と撮影する時点で相手に得をさせているまで思うことは出来ません。モデストでポライトな日本人気質も影響しているのかもしれませんが、技術が理解されにくい日本という場だからこそ、私自身が「さあ私の技術に価値を見出しなさい」とやりづらい部分も感じています。

そこにネコチャンがいなければネコチャンは撮れません。それが写真の本質。

やりきらないと

 先日、長らく互いの創作物を見て意見を交換している友人から「伴さんは文章で自我を出さないからな~もっと出さないと」という意見をもらいまして、なるほどnoteみたいに承認欲求の上に薄皮一枚被せただけ、みたいな文章になるくらいなら自我を見せないプロのライターみたいなノリでもええわ、と無意識にやっていたかもしれない、と思い至りました。

 しかし友人が言うように、わざわざ個人のブログを見に来るのは便利情報を除けば他人の自我を見に来るわけで、それは文章に限らず写真もきっとそうなんですよね。

 被写体になってくれた人、物、土地を利用し尽くす覚悟を決めず、横からちょこちょこ撮って説明文を書いて「なんか良いように」まとめるのはカメラマン、ライターの仕事として正しいのですが、それじゃ面白くありません。まあ分かっちゃいるけどやめられない部分もあるので、自分で矯正して行くしかありませんね。

 修行の道は続きます。


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