常滑に住んで陶芸家との交流が増え、彼らの作業を見る機会が増えた。
彼らの手の中で土は塊の状態からどんな形にでもなり、また元のとおり塊に戻すことも可能だ。しかし我々の人生は土のように変幻自在というわけにはいかない。基本的に起きた変化は二度と戻らない。だから私たちは写真を撮るのである。
今日と明日ではそれぞれの姿形に変化が起きたか分からないが、5年も経てば誰もが変化に気づくだろう。時間は音もなく私たちから何かを奪い去っていく。
旅先で、ふとこちらとあちらの人生が交錯する瞬間があり、やはりそれを捉えた写真は心に残る。



この人たちは今頃どうしているのだろう。きっと不可逆な変化を人生に加えながら今日も生き抜いているのだろうと思う。
自分の姿形が他人の写真に収められることに対して、現代日本ほど忌避感が強い国はないだろう。東京ではすでに人でも殺したかのごとく、カメラを街に向けることが嫌がられ、人によってはそれを攻撃の機会として捉えてつっかかってくる。
もちろん、いかがわしい用途に他者の肖像を使う者がいるのは確かだし、作品と称して他者をないがしろにして自分だけ出世しようとするサイコパスじみた自称写真家もたくさんいる。それに利用されたくないと思うのであれば写真に収められることに対する忌避感も理解できるが、世間の認知はそこまでのものではなく、単なるうっすらとした醜形恐怖と、彼らの中での横並びも感覚でそうなったから「いけないんだぞ」と告げ口マインドで批難しているだけだろうと思う。
しかし物事には両面あり、紛れもないその生が刻まれる点は無視できない。
街も人も刻々変化しており、二度と戻ることはない。それを一瞬だけ繋ぎ止める写真の役割は、今後もなくならないだろう。
