撮られること、存在証明


 先日、写真を教えているオンラインサロンの生徒数人と久々に会う機会があり、その中で一人の青年が、自分は大多数の日本人同様、写真に撮られたくない気持ちが強い、と言ったことであれこれ考えるきっかけになった。

 現代日本では写真が忌み嫌われている。
 町を歩いている際、カメラを構えた人間が目の前に現れたとする。そこで写真に写り込むことに嫌悪感を抱く人間が多いのだが、その理由はいまいち判然としない。私の見るところ、それはゼロリスク信奉と消費者マインドによって支えられているもののようだ。

 ここで問題になるのはプライバシーの問題というより、社会になんとなく「写真は悪いもの」という空気がはびこっており、その空気を吸っているから明らかに性的な目的で撮影しているらしいだとか、写真を撮ることで何か加害しようとしているような悪意が見えなくとも、写真に撮られることに対してなんとなく嫌悪感を抱くのである。その空気が蔓延していない社会では、そもそも何も感じない。 

 実際は誰もが毎日あらゆる形で写真を目にしているし、自分のプライバシー権には敏感でも写真に著作権が発生していることには鈍感な人間も多い。それが外国の写真であれば、インターネットは世界中をつなげているにも関わらず人物がバッチリ特定可能な形で写り込んだ写真を喜んで「シェア」していたりするのである。

 逆にいえば、写真に写ることのデメリットしかほとんど目にする機会がないのは異常だ。

 写真に撮られることで良いことが起きる、というと家族写真が代表的だ。しかし家族を撮ったものはあまりにハイコンテクスト過ぎて当該の家族以外には意味が伝わりにくい。あまつさえ家族写真をひと様に見せるように作品として撮りました、というものは、わたし個人としては生理的に受け付けない。

 家族写真は家族だけのもので良く、わざわざ他人に見せずとも自己完結できていればそれで良いのに、演出までして「幸福な家族でござい」とされると悪寒がするのである。

存在証明

 写真を撮ること、写真を云々することを生業にしている私からすれば、他人の写真に写ることは存在証明に他ならない。

 たとえばちょっと立派なカメラを持った人がインドに行くと、空港の売店のおっさんからして「お前、そのカメラで俺を撮れ」と撮影を要求してくるというのだ。これは複数の人から聞いた話なので間違いない。

 西欧の人々も、あれだけはっきり権利を主張する人たちであるにも関わらず、街角で私が撮っている写真に写り込んでも何も言わない。「そう、それはあなたの作品だからね」という感じでさっぱりしたものである。

 もちろん明確に「撮るな!」と言ってくる人もいるのだが、その数はごく少ないし、プライバシー権と表現の自由のせめぎ合いが街場で実演されるだけで、日本のように突然人格攻撃を始める形ではなく、ディベートの形で権利を主張することがほとんどだ。私もアメリカで撮影拒否を食らったことが何度もあるが、こちらがオーケー、やめるよ、と言うと向こうは礼を言うのである。こちらにも撮る権利があることを尊重した上で拒否するので、撮る側としても拒否権を気持ちよく尊重しやすいのである。

 あちこち行って街角で写真を撮る度に反応が全然違うのを、当初はただ「日本から出ると撮りやすいな」と感じていたが、だんだん写真に写ることの意味が日本とそれ以外の国で根本から違っているのだろうと思うようになってきた。

 その違いとは、他人の写真に写ることが自分の存在証明になるという感覚を持っているかどうか。また存在証明をしたいと思うかどうかの違いだ。インドの空港の売店で働くおっさんは、その働く自分が存在したということを世界に向かって証明したい、刻み込みたいと思っているのだろうと想像する。

台北・2017年

写る=存在した

 写真には現実にあったものが写る。ものすごく単純である。

 撮影者がその日、その場所にいてシャッターボタンを押したから、そこにいた被写体は写真に写る。それを撮られた人が個人の出来事として捉えるか、歴史の一部として捉えるかの違いである。
 その姿が上手くいけば国境を超え、時代を超えて、全く接点のない人間に「なるほどこういう人がおったんだな」と伝わることは存在の証明に他ならない。名も知らぬただのおっさんであっても、そこに「いた」ということは一定の重みを持って伝わるのである。
 私はそれこそが写真の使命としてもっとも相応しいものだと考えている。

 逆にいえば日本人は存在を証明することを毛嫌いしているのかもしれない。証明するべき存在と自認していない可能性もある。国家として見てみても、自分が自分であること、自分たちが自分たちであるという意思を見せることにほとんど興味がない。と同時に、自分の中でだけ納得できていれば良い、という強い内向性も感じるところである。それはゼロリスク信奉者が多いこととも共通しているように思われる。

 ただ、確固たる意思というのは裏を返せば頑迷さや独善性とほとんど同じものである。日本の社会は自己主張が強くない人ばかりだから互いに譲り合う事ができ、だから犯罪率も低く安全である。写真を撮る人間としては波風が立たないのはつまらないが、妻を持つ身としては安全であることは他の何にも代えがたい。

 いち撮影者として、存在を証明したいと思っていない人を無理に撮っても気の毒なので、証明する必要のある存在を探して撮影をするのみである。


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