写真というものを通じて、ひとりの人間が自分の現状をどう捉えているかが如実に分かる出来事があった。
前回のブログで現代日本において写真が忌避されていると書いたが、そのブログを書いた翌日である今朝、通勤途中に猫を見かけたので撮っていたところ、写真に写りようもない角度にいた、きれいな言葉でいえば家なきアルコール嗜好者の男性から「私の姿を撮影されたのではないでしょうか?」というような声をかけて頂いた。
私が彼を撮ったという確証があるわけでもなく、私も実際に写野に入れていないのだから難癖をつけられても「不在の証明は難しいなあ」と思いつつ、撮っていたのは猫であってあなたではない、と説明するのだが、結果としては昨日書いたのと同じ流れで「自分が撮られたに違いない」「撮った奴は悪い奴だ」と人格攻撃に直結し、勝手に激昂してしまって対話が成り立たないので通報したのだが、少し面白い発見があった。
彼はスタジオ界隈でよくパックの鬼殺しを飲んでは道端で座り込んでいる常連なのだが、その彼ですら、その姿を写真に撮られると恥ずかしいのである。
私自身はアルコールその他の薬物を合法非合法問わず摂取しないのであまり理解が及ぶとはいえないのだが、彼は自分が醜態を晒していると自認し、それを恥じながら酩酊状態で路上に自分の姿を晒すことを良しとしているのである。これは大きな矛盾だし、言い換えれば無責任である。
こうした矛盾をそのまま社会に押し付けるのは文字通り反社会的な輩がよくやることで、自分は社会で生み出される利益を少しでも多く享受したいが、同時にその利益を正統に生み出すのは多大に汗をかく必要があるので拒否する、というものだ。子供の論法を大人の腕力で実現し、他者から奪い取ることで生きている。社会のクズという表現は、社会の内側にありながらその維持にも発展にも寄与せず収奪するのみという意味で残酷だが正確だ。
だから彼は自分の好きなように振る舞いたいが、存在は証明されたくないのである。結果として写真に撮られ、遠くの人がそれを見て自分を理解するのを嫌がる。恥を抱えつつ自分を晒すという点では演劇的、喜劇的でもある。
社会の観点からは、彼はおそらく福祉の対象であり、憐憫の情をもって生かしていくのが最善と思う。私もいつ人生から転げ落ちてあのライフスタイルを選択せざるをえないようになるか分からないし、自殺するほどの度胸があるようにも思えない。であれば最低限人間としての尊厳を保てるよう援助したい気持ちもある。クズもクズなりに、ではなく、クズであっても関係なく生きる権利がある社会に生きていることは誇りだ。
唯一、彼が放った言葉「カメラなんかもってそのへんを撮ってて面白いんか!」が心に響いた。それは良い質問である。