デジタルでのモノクロ


 カメラを手にしてそこらをうろついていると、これはモノクロだ、と思う瞬間がある。色を捨ててモノクロ写真にすると良さそうな被写体だ、ということである。

 冷静に考えてみればわざわざデモザイクしたRAWデータをまたモノクロにする意味があるのかよく分からないが、デジタルとフィルムのモノクロは基本的に別の表現手法だと理解している。

 共通項としては、まず色を放棄して明るさの変化のみで対象を見せる手法であること。これはカラー写真との決定的な違いであり、逆にいえば明るさの変化だけが見せたいからモノクロを選ぶ、ということもあり得る。

 カラーで写真を始めた男がモノクロをやり始めると、どんどん暗い写真を撮るようになっていく。私も自分の経験を思い起こしてみると、もともと色に対して反応の鈍い脳が、色を放棄することでようやく対象を取捨選択し、ここは絵として必要だ、ここは不要だというふうに選択出来るようになるのである。デジタルでいえばRGBの3チャンネルが1チャンネルに文字通り一本化されることでようやく認知可能になったのである。

 色は煩雑だ。「妙なる」などという繊細な表現はモノクロに適用できないとは言わないものの、やはりカラーの方が相応しい気がする。

 フィルムとデジタルのモノクロで最大の違いはノイズの扱いである。

 Amazon Primeに「最後にして最初の人類」というアイスランド出身のヨハン・ヨハンソンという人の映像作品があり、観てみると冒頭から旧ユーゴスラビアのいかにも共産圏という感じのモニュメントを映す映像が流れるのだが、フィルムは16mmモノクロでほとんどノイズに埋もれているような状態である。

 これはもちろん意図してのことなのだろうが、撮影フォーマットと再生サイズの間で差が大きいとノイズが動いているだけにしか見えないのに映像としてはちゃんと成立するのがフィルム映像の面白いところである。これはフィルムの面積がどれだけ大きくなろうが原理的には同じことで、拡大していけば必ず粒が動いているだけにしか見えない。

 フィルム写真はそれを止めたようなものというのが私の理解するところで、つまりフィルムのモノクロ写真はノイズの集合に意味を持たせたようなものである。それで明暗を説明しているから、撮り手によってはノイズの部分に写真の本質を見出すのである。

 それに対してデジタル写真はあくまで画素ごとにきちんとマス目が並んだ表現である。つまり区画整理された何丁目何番地に何%の明るさ、というふうに割当がきちんとしている。合理性の極地で実に整然として気持ちが良いが、だからこそ味気ない、物足りないという人がいるのも理解できる。

 これはモノクロ写真がノイズで出来ているのか、それともノイズは区画整理の中で発生してしまう邪魔なもの、もしくはフィルムを模して付け加えられるものであって本質ではない、というふうに認識が違うことから起きる齟齬である。あまりに根本的な部分で認識が違うのだから話が噛み合わないのも仕方がない。

 私は化学によって生み出されるノイズにロマンを感じる質ではなく、センサー上に、物理学者とエンジニアの狂気でみっしりと詰め込まれたトランジスタの方に面白みを感じるタイプなので後者を選択する。それで有機的な表現ができるか否かは分解能と撮り手の感性の問題である。


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