ライカM11・利便性の減価償却


 先日、縁あってLEICA M11をお借りした。
 手に取ってみると程よく角張ったボディから、さあ俺を使いこなしてみろと囁く声が聞こえるような気がする。実際、ライカを使う者は「お前ライカ使ってんのにそれ?」とカメラオタクから罵られる恐怖と闘うことになる。何と恐ろしいブランドだろう。

遠縁の親戚であるPanasonic LUMIX S5で撮影。

 ライカユーザーの写真が非ライカユーザーからやたらと厳しい目で見られるのは、ライカのカメラやレンズがおしなべて高額であることから、それが買えないやっかみが半分と、既存のライカユーザーたちの態度がスノビーで鼻持ちならないのが半分である。しかし罵詈雑言はライカユーザーからも飛んでくるようだ。

 本来は、私も含め趣味の写真など好きに撮り散らかしていれば良いのだから、他人の写真にガタガタ言うのは野暮というものである。野暮な奴に良い写真が撮れるとは思えない。カメラに限らず舶来ブランドに依存して自尊心を保つのも自由だ。それがひとこと「ライカ」と口に出すと穏やかでいられない雰囲気がある。実に殺伐としているが、カメラの世界は車などど違って社会的にさまざまな階層の人間が入り乱れる芸事だからこそなのかもしれない。

レンズ

 私の見解としては、ライカのレンズは確かに凄い。さすがに値付けが少々大げさ過ぎるように感じるが、物的な面でも人的な面でも、原価をしっかり掛けないと作れないものを作っている。それは現代的な効率をあえて度外視するからこそ保てる質であるように見える。

 レンズの写りにおける哲学を社員から社員へ長年に渡り伝達し、また社員たちにちゃんと良いものを食わせ続けているからこその製品群。実際どうかは分からないが、少なくとも写りの面ではやたらと凄みがあって「これは良いものを食っている奴の考えることだ」と思わせてくれるのがライカの面白いところだ。

 私が持っているライカ製のレンズはこのブログでもおなじみのSummicron-R 50mm F2 ROMというライカ製一眼レフRシリーズ用の標準レンズ一本きりだが、その立体感、色のバランスに感嘆しつつ、またレンズの工学的な精度がいまいち高くないことにも驚いた。これはライカ製のMFレンズ全体に言えることのようである。

 どこブランドであろうが、日本製の方が機械としての精度は総じて高い。ライカも本気を出せば、コストを価格にそのまま転嫁することが許されている数少ないブランドなのだから達成可能なはずだが、あえてしないところにまた面白みを感じる。おそらくライカにとってその部分は必要がないのだ。わたし個人として心酔することはないが、する人の気持ちはよく分かる。

 コシナツァイスといいパナライカといい、ドイツ人が入れ知恵して日本人が作ったレンズが好きだ。
 日本人だけで作ったレンズよりも明らかに写りが「良い」のである。何を採り、何を切り捨てると人間の脳の特定の部位に働きかけて「あ、気持ち良い」と思わせられるのかをよく知っているのがドイツ人の光学設計者であり、その感性と能力が結集したのがライカという印象だ。

 実際にM11で撮ってみると、絞っても現代日本カメラのように割り切り過ぎず、淀みを残している。その淀みが好きな人にはたまらないだろうと思う。

レンジファインダー

 YouTubeでのレビューの際、お借りしているボディであるにも関わらず遠慮なく「高画素センサー、M型レンズ、それとレンジファインダー機構の3つが組み合わさる合理性が感じられない」と話した。

 使ってみればレンジファインダーでの撮影が独特で楽しいのは間違いない。撮影するリズムが違うし、そのおかげで身のこなしも、見るものも違うから写真が変わる。これはカメラが替われば当たり前のことではあるが、そういう意味ではレンジファインダーでしか撮れない写真が確かにあるだろう。

 しかしそこに高画素センサーをぶち込んできた理由が分からない。
 ライカのことだから高画素センサーを投入するにあたり、きちんと理由を定め、長年支えているユーザー写真家たちが「こう使うと良い感じ」というロールモデルがある筈だが、私にはピンと来なかった。
 このM11を貸してくれたオーナー氏の、ライカM型というのはポルシェでいう911みたいなものじゃないか、という説に深く頷いた。分かっちゃいるけどやめられないタイプのものなのだろう。

 少なくとも高画素になれば高精細な写りになるのは間違いないが、M型特有のどんよりした写りがセンサー側でやたらとバキバキに解像させられている絵を見るにつけ、なんだか無理をさせているようで申し訳ない気持ちになってくる。タキシードを着た老紳士が肉体労働で汗をかいているような、そんな違和感である。

 そもそもレンジファインダー自体、本来は速射性を重視して作られたものであるが、現在は他にいくらでも「優れた」測距方式がある。ライカは目測で合わせれば何よりも速くピント合わせが出来るという人もいるが、AFレンズでも目測で合わせようと思えば合わせられる。そうする合理性がないからやる人がいないだけなのだ。

 世の中、本来の目的から外れて行くことはいくらでもあるし、手段を目的化することも多々あるのでべつにライカを責める気はないのだが、レンジファインダーがそもそも利便性を指向して作られたのに、現代のM型ライカはその利便性を使うためではなく、不便を楽しむためのカメラになっているのだ。それは懐古主義と呼ばれるものである。

 ライカM型の長い歴史の中で、いつからレンジファインダーがバリバリ最先端の道具から、合理性に欠けると分かっちゃいても楽しいから使っちゃうよね、という趣味的なものへ減価償却されたのか、そこにいちばん興味を持った。


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