寂寥というより恐怖


 台風15号が静岡あたりで豪雨による被害を撒き散らしながら温帯低気圧へと変わった。そんな中、引っ越しを控えた状態で住み慣れた西東京をうろうろしていると、自分の人生を整理する時もこんな気持ちになるんだろうか、という気がしてくる。

 あそこの花はもう咲いた、ここの空き家は取り壊されて空き地になった、という風に、この7、8年に渡って作り上げてきた自分の脳内データベースが用をなさない場所へ移るのである。寂しいというよりも薄っすらとした恐怖を覚える。

 それは一方的なものであっても関係が精算されてしまう恐怖である。人間は関係性の生き物だからその喪失に怯えるのだろうと思う。一定以上の距離を取る限り死は全く重みを持たず、時には笑いの種にすらなるが、死以上の関係性の喪失がないからこそ推理小説などでは作り話に重みを持たせるために不謹慎にも死体の山を築くのだ。

 自分が死んだ時は、私を知る人が「そういえばあの人、最近何してるんだろう?」と思い出しつつ、特に消息は確認しないまま消えていくようなあり方が望ましいと思っているが、生徒さんがいるんだからそういう訳にもいかないじゃない、というのが妻の意見である。個人の理想としては客死で鳥葬だが、それは妻を先に看取るのが前提である。死に甘美なロマンを抱くタイプでもないので、実際は何がどうだろうが死に際に痛くなければ何でも良い。

このネコチャンだけが気がかり。

 その反対に、生まれ育った愛知県とはいえ、引っ越した先は住んだことのないエリアである。それは見知らぬ土地をゼロコストで毎日発見出来る権利を得るのに等しい。喪わなければ得ることはない。


コメントを残す