撮影作業に没頭したい


 最近、恐ろしくゆっくりであるが三島由紀夫の紀行文集を読んでいる。
 三島が旅の中で何を見てどう感じ、それを他者に向けてどう投げかけたかというのが非常に面白く、書かれている部分とあえて書かれなかった部分を想像しながら丁寧に読み進めるので一向に終わりが見えない。

 今のところ一番感動的だったのは『アポロの盃』に含まれる『ジュネーブの数時間』という章で、南米での滞在を終え、トランスファーでたった数時間滞在したスイスの景色を見て「情慾の果てたのちに、形而上学の世界が立ち戻ってくるよう」だとふたつの世界の違いを鋭く描いて見せる章だった。岩波文庫の三島由紀夫紀行文集に収録されている。

 南米とヨーロッパ、ふたつの世界の差異を作り出しているのが行為・行動と精神だ、というのは現代では差別的に見えるのかもしれないし、べつに南米人に精神がないだとか、ヨーロッパ人に行動力がないという話でもないのだが、恐れを持たず二分して見せてくれるので見る者に明快だ。

 自分の行いを振り返ってみると、あちこちに旅してみても撮影する作業に没頭していただけで、精神性が伴っていない。PDCAのPをあえてすっ飛ばしてDを連打しているのである。

 頭がパーの状態で生々しい現実と対峙する作業に没頭し、その作業に次ぐ作業の果てに見えてくるものは何か、という部分に最大の興味があるのだ。かっこよく表現するなら観念よりも先に肉体があるのだ。だから私が写真を教える場では、とにかく撮り倒して写真を撮る筋肉をつけねばならぬ、というので修行と称することが多い。

 集まって同じ場所を撮り倒すことを修行合宿と称しており、何を撮れともどう撮れとも細かいことは指示しない。各人それぞれのテーマがあるので集合も離脱も撮影内容も撮影技法も好きにやればよろしい。旅としての思い出や集まって写真を撮ることの意義のようなことも一切考えない。ただ日程と場所を通知し、集まれる者が勝手に集まってひたすら撮るだけだ。

 これは行動そのもの、作業そのものに価値を見出しており、必ずしも結果を求めない点で特殊である。なぜこういう特殊な場を設定しているかというと、私が職人的な人間だからである。

 職人は行動よりも先に結果を求めない。行動よりも先に観念をこねくることを良しとしない。体が先に動かなければ嘘である。口で言うよりも殴った方が早い、というのは一面の真実を表しているのだ。言葉を尽くしても伝わらないことが、殴っただけで火花の散るように伝わってしまうこともある。最善の見方をすれば拈華微笑である。

 どだい観念などというものは日本に馴染まない。鹿鳴館で踊り狂ったりして懸命に西洋文明を輸入しようとしてきたが、観念だけでは輸入できないのである。
 これは私が音楽をやってきた経験上つくづく実感しているところで、日本人にとっての西洋音楽と、西洋人にとっての音楽は全く別物である。下手をするとバークリーに留学しても日本で身についてしまった西洋音楽が音楽に変換されないまま帰ってくる人もいるくらいだ。発生も目的も全く違うのだから、生活様式から学び直さねば到底矯正できるものではない。

 だから借り物の観念をこねくり回すよりも、いっそのこと日本古来のやり方である作業に没頭した方が良い、というのが私の写真に対する考え方である。

 先日、植物園へ写真を撮りに行ったが、植物の種類に興味があるふりをしながら、その実そんなものには興味などなく、ただひたすら機械を通じて二次元化する作業に耽っていた。責任を伴わない作業のなんと楽しいことだろう。

 ただ、文章を書く上ではそれでは済まない。文章を書く人間としては観念をこねくり回しつつ、合間に写真作業に没頭して脳をリセットするのが一番良いのかもしれない。


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