今朝、暑くならないうちに撮っておこうと近所を徘徊スナップしている時、頭の中にふと「念仏のような写真」というフレーズが浮かんできた。
以前からガリガリしたテクスチャーの写真、略してガリガリ写真を撮るのが面白い、と写真をやる人にもやらない人にも説明しているのだが、ガリガリというフレーズが伝わりやすいらしく、たいがい一発で覚えてもらえる。日本語の利点の一つだ。
擬態語、オノマトペ自体は他の言語にもあり、オノマトペということば自体が元はギリシャ語だというからずいぶん由緒正しいのだが、例えば英語では猫の鳴き声がmeowというように使用は一部に限られており、私の観測範囲内では何かしらを説明するのに擬声や擬態に逃げることなく説明し切るのが常識とされているようで、オノマトペを使った表現はちょっと子供っぽい扱いである。
日本語圏でも役所の文書のように硬いものであればオノマトペを避ける傾向にあるが、社会一般での使用は憚られることがなく、子供から大人までオノマトペを使い、ローコストに感覚を共有している。これも日本人らしさの一面なのだろう。
そのガリガリ写真、「何を撮るか」で見ればハードなテクスチャーを撮るので明快なのだが、それを作品として扱うのであれば誰のためのどういった効果をもたらす写真なのか定義づけて説明する必要があるのかもしれない。
たとえばガリガリとは関係なく人物の写真作品を撮るとして、それは撮影側からすれば人物写真だが、見る側からすれば「玄関に飾る写真」であったり「休みの日に眺めてリラックスするための写真」であったりと、何が写っているかよりも飾り易さのほうが重要になってくる。逆になんとなく写真として好きだな、で買ってしまったプリントは飾る場所に困ることもありそうだ。
もちろん作品写真も届ける相手により求められる様態が異なり、音楽でいえばエレベーターミュージックのように「無音では辛いので埋め草として」必要とされるものから、現代音楽のように好事家向けの実験的なものまで多種多様である。それを一つのものとして理解しようとするから混乱するのだ。
ジョン・ケージを真面目な顔をして聴いている人間を見ると、この人たちは頭がおかしいんじゃないだろうかと思うのが普通の感覚だが、作者も演奏者も聴衆も、そこに至るまでのクラシック音楽のコンテクストがあるからその場が成立しているわけで、その点ではブラックメタルも現代アートも似たようなものである。
もちろん昨日ジャズを聴いてみたいな、とリスナーになったばかりの人間が、分かりもしないのにしたり顔でフリージャズを楽しんでいるふりをするようなこともあるだろうが、それとて予定調和的に取り込まれる一つの要素に過ぎない。分かり辛い芸術は、分かり辛いものを理解しているのだ、と装い良い気分にさせることも特典の一つとして与えるものだからである。
私はガリガリの写真を喜び勇んで撮っているわけだが、その気持ちよさを鑑賞者として誰かに受け取ってもらうには、どういう効能があるか説明する文言を取り付けねば形にならない。それは遡って撮影自体にも反映されるべきだろうと思う。
一番簡単なのは、観念的であるということにして訳の分からないものを作り、「祈り」みたいなタイトルを付けて売り飛ばすことだ。一定以上社会的な人間は相対している人間が微妙な表情をした時、その表情や態度が何を意味するのか察しようとする生き物である。それと同じように、何かを感じようとする気持ちを持っている人間ほど、あいまいで形の定まっていないものを見た時、そこに自分を映して何かを見出そうとする。
もちろんそれは常に誤認でしかないのだが、とくにアート商売の場ではその曖昧さに余韻を感じさせる方が鑑賞者も参加できて面白いのだろうと思う。だからこそ抽象的なものが飾りやすいのだ。
であれば、原材料を示すガリガリではなく、受け取り手にどういう変化をもたらすものとして私の写真が撮られているかを言葉で表す必要がある。そこでふと浮かんだのが「念仏のような写真」というフレーズだ。原材料がガリガリ、目的が念仏写真というわけだ。
Patreonでは毎週火曜に、その週私が撮ったガリガリ写真の中から選んでパトロン諸氏に送り付けている。
ほとんど嫌がらせのようなものの筈だが最近なぜかパトロン数が微増傾向にあり、なぜパトロンとして新規登録してくれるかよりも、なぜ辞めないのかが不思議である。パトロン諸氏がこのガリガリ写真の念仏的効能を感じてくれているのだとしたら嬉しい。