ふんわりしたそれっぽい写真がどう成立しているのか不思議だった。今でも不思議だ。
あれは一体誰がどういう目的で撮っているのだろう、というのが、どうやって撮っているのかと同じくらい気になる。出来上がった写真を見ると感銘を受けるものもたくさんあるのだが、こちらも写真を扱っているのは同様ながら、まるで違う論理で動いているので遠い世界の出来事なのだ。
技術的な面でいえば、情報量を下げたい願望が強い撮り方である。女性向けの媒体でよくそういった写真を目にする。たとえば外国人のモデルがアンニュイな表情でカスミソウを持って窓際に立っているのを、ピント甘め、ゆるいトーンで撮り色を捻っているような写真である。
そういった写真を見ると実にそれっぽいなと思うし、そうした写真が商業媒体にも多く扱われているということは需要があるのは間違いない。
写真を撮り始めると、おしゃれテーブルフォトが自分の感性と全く違うところにあっても、その写真のアイキャッチ力の強さから一度は真似してみたいと思うし、ふんわりそれっぽい写真も要素から理解して真似事をしてみたくなるものである。
写り込んでいる要素としては、モデルがそのへんにいる見慣れた日本人の容姿でないか意図して一般的な日本人の姿から遠ざけようとする努力が見られたり、ほとんどの場合レンズの絞りは存在しないかのごとく開放か、そもそもピントが合っているか分からない結像のゆるいレンズを使ったりフィルターを使ったりしているのが見てとれるのだが、それらをそのまま真似したところで同じようにそれっぽくはならない。
あれは図鑑写真の感性と正反対にあるものだ。
図鑑写真は与えられた面積で徹底的に対象を説明したいものである。昆虫であれば足に生えた細かい毛の一本まで逃さず克明に記録したい。その細かい毛の描写は昆虫が壁や天井に張り付く機能を説明するために必要なのだ。図鑑写真派の人間はそういう発想である。麗しい表現をするのであれば、美しさとは機能の果てに立ち現れるものだと考えているタイプだ。
だからレンズもセンサーも高性能な物が欲しい。それが転じて、高精細に写し取れる機材を持っていれば、それだけで自分が上等な撮影者なのだと勘違いする者が出るのもこの感性に基づいている。
しかしこと女性のポートレートを撮る場合、ただ克明に写せば良いというものではない。機能を説明するための写真ではそもそもないのだ。図鑑撮りを突き詰めると容器の写し方にばかり気が行ってしまい、中に人間が入っていることを忘れがちである。
ひたすらに克明な記録としての人物写真を目にして、「こんな撮り方をされたいか?」と思うのが人情だろう。撮影時点では撮影者が好きに撮れば良いが、その写真を見て他者がどう思うかは他者の自由である。仕事や作品の写真であればそこが本番だ。
何事も克明に、というのが図鑑派であるなら、ふんわりそれっぽい系の写真は絵画の世界の言葉を借りるなら印象派ということになるのかもしれない。
写真の世界ではピクトリアリスムという流れがあった。絵画の技法を借り、現実をそのまま写し取ろうとしなくても良い、なんならもっとファンタジックでも良いじゃないですかという一派である。
その後に出てきたのがストレートフォトグラフィーというのが興味深い。私もどちらかというと克明を極めて抽象的になってしまう表現みたいなところに興味があるのでふんわり雰囲気系の写真は撮影不可能、理解も及ばない領域である。図鑑派というほどではないが、脳がおっさんなので事象をそのまま記録するほうが脳の動作としては楽である。
ふんわり印象派写真も、やれと言われれば似たようなことをやれないでもないが、図鑑系とは根本的に省略の作法、そもそもの着目点が違うので表面をなぞるだけで本当にそれっぽくはならない。ものの見方は訓練で解像度を上げることは出来ても、結局は生育過程で摂取してきたものがそのまま反映されてしまうからそうそう変えられるものではない。
印象派写真をやっている人というのは、要は撮っているのがじゃがいもみたいなおっさんであっても、それはそれとして作品世界と完全に切り離したいということなのだろうと思う。現実世界と分離して別の世界を作るような、箱庭を大事に生きるスタイルに違いない。そういえば印象派写真を好むのもシルバニアファミリー的な箱庭遊びが好きなのも圧倒的に女性が多い。どこかしら共通点があるのかもしれない。
生の自分と作品が分離しており、「そうでありたい自分」を人形に着せ、その人形同士で会話させて生々しさを低減し、一定の品位を保っている感じだ。当人が被りたいと願っているペルソナ同士での会話を許す度量みたいなものが感じられる。目をつぶる優しさと言い換えても良いのかもしれない。