花と祭の季節


 3月末から4月にかけて、常滑で花と祭の撮影に明け暮れていた。

 撮っている間は自分が何を撮っているのかよくわからなくなっているのが常である。あれだけ人に教える際は出口設定をしろ、目的と目標を定めて撮れと偉そうに言っているにも関わらず、自分が撮っている時は撮るのに夢中になっている。

 もちろん最低限の目標は決まっていて、instagramの@tokoname.tktkにアップする「常滑は面白いところであるぞ」という紹介用のカットとして使える写真があれば良いな、と考えてはいるのだが、その具体的なアプローチは特に決まっていない。アプローチを決めないからこそ撮影に余地があって面白い部分もある。

 どのみち写真はほとんど毎日病気だから撮っているわけで、撮る写真すべてにかっちりと目的が決まっているわけではない。撮ること自体が目的になってしまうからこそ病気なのだ。

 冬が終わり、まずは花桃が源平を模した紅白の花を付け始め、それを追いかけるようにして様々な花が咲き、しばらくして申し合わせたように一斉にソメイヨシノが咲き、どこで咲いているのを撮ろうかと戸惑い、また咲いているのに出くわしても撮り辛くて仕方がないなと毎年恒例の苦戦をしているうちにソメイヨシノは散り、そして常滑地区の祭が執り行われた。

 祭では市場という地区で山車を運営する皆さんに近い距離で撮らせてもらい、大量にシャッターを切り、セレクトしてRAW現像をし、またセレクトし……とやっている中で、結局自分がやりたいのは花も祭も、美しいものを勝手に抽出したいのだというのが分かった。

 特に祭は神事である。ある種、集団のために個性を没する中から行為としての美を抽出できるかもしれない、と現像やセレクトをしている際に感じた。撮っている時は自分のアンテナが反応したものを片っ端から撮っているので、いちいち深いことは考えていられないのだ。

 神事に参加しているのは個人であって個人でなく、自我の境界が曖昧なところに日本らしさがあるような気がする。大きな山車を運用するために俺が私がでは早々に立ち行かなくなる。時代を少し遡れば、神事においては生命すらも個人のものではなかった。疫病で諏訪の御柱祭が取りやめになってしまう現代、そこまでファナティックなものは残っていないのだろうが、建付けとして神事というのはそういうものである。

 エゴの塊のように暮らしている私からすれば、神事のために様々なものを犠牲にして山車の運用はじめ祭を成立させる姿自体がすでに尊いのであって、私がその中の誰かにレンズを向けて撮った時、それは個人を写すポートレートではなく神事の一部を写しているのだ。

 秋口にまた祭礼が、より大規模に執り行われるというので、その際はより抽象的に神事そのものを切り取れるような方向で動いてみたい。


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