美しさは所与のものなのか。


 美しさは所与のものなのだろうか、そう扱ってしまっていないだろうかとよく考える。誰かに定義づけられて美しいとされているから美しいのか、だから撮るのか。

 人間は社会性の生き物であり、いちいち森に落ちている樹の実を手に取って、これは食えるのか食えないのか、と悩んだり、ためしに食べてみて酷い目に遭うまでもなく、伝聞でもインターネットでも情報を探してくればたちまち可食かどうか判断がつく。それが縦にも横にも折り重なり、広がりを持っているのが人間社会の凄さだから、何かしらの感性についても先行事例がある程度の集合をもって傾向を持っているのであれば、それに従うのも悪くない。

 例えば我々の味覚が個人差はあれど、地域や国で明らかな好みの傾向を示すように、何かを見た際に美しいと思うかどうかも生まれ育った環境にある程度依存してしまうのは仕方のないことである。
 おっさんに写真を撮らせてみるとそこまで深い話にならず、女性の体と自動車以外に美しさを感じたことがない、文化資本が限りなくゼロに近い人間が大量にいるが、それとて環境に刷り込まれてきた感性である。私もヤンキーに囲まれて育ったのでよく分かる。

 しかしよく考えてみると、文明社会では身の回りに誰かのデザインしたものが溢れている。というより、誰かがデザインしていないものを見つけるほうが難しい。デザインといっても、なにもジウジアーロのように凝ったものや高価なものばかりではなく、カメラであれティッシュの箱であれ玄関のドアであれ、どこかの誰かが利便性と美しさのバランスをどこかしらで取ってその形に落とし込んだものだ。

 デザインに囲まれて暮らしているということは、誰かの定義づけた作法でものを見せられているのに等しい。環境は無意識のうちに、だが強烈な力をもって人の脳に浸透し、ものの見方を変えてしまうのである。善悪や優劣の話ではなく、それに自覚的である必要があるという話だ。

 美しさを誰が定義づけているのか。
 これは写真を撮るプロセスを考える上で重要なポイントであるし、誰かの定義づけた美しさに大なり小なり疑問符を投げかける行為だ。

 誰かにとってそれが美しいと決定されているものを撮影するのは商業写真である。
 被写体のどこがどう発注者にとって(そしてターゲットとされた購買者にとって)美しいかを察知し、それを増幅して撮影し、目に見える形にするのは必須スキルである。誤解されがちだがカメラマンの仕事は絵コンテを基に撮影する仕事でもそこがメインであり、ダイヤルを回したりボタンを押したりするのが仕事の本質ではない。

 仕事を一緒にするパートナーによく驚かれるのだが、専門的に写真を撮らない人どころか、自前のカメラを持っている人であっても実際に組んで撮って見せるまでこちらのスキルは理解されないが、実際に撮って見せると仰天するのである。それはライティングなどの写真技術を使うことでものの見方を巧妙に誘導するのが商業撮影技術の本質だからである。

 この「誰が美を決定するのか」の考え方は写真全般に通底するものである。美術の場合はもっとひねくれた形で表さないとクライアントが喜ばないような雰囲気があるが、最大の違いは「何を美しいと感じるのか」を決定する権限および責任が、芸術写真の場合は撮影者に移譲されるということだ。だから見る人間もそれを前提で見る。美しさを定義づけようとする作者の取り組みこそが鑑賞と評価の対象だ。

 立場を替えると、世の中のほとんどの人は、既に世の中に出回っている感性でしかものを見ることがない。刷り込まれた感性でしか評価ができないものである。
 たとえば素晴らしい企画を立ち上げてプレゼンしても、世の中に類似の先行例がないと承認されないパターンが多々ある。これは承認する立場の人間に先見性がない可能性もあるが、世の中の大多数にとっては全く触れたことのない感性は「ない」のと同然どころか、下手をすると嫌悪感すら覚えるものだから、製品として扱おうとするとリスクが大きく、冒険できる度胸と財務がないと挑戦し辛いのである。

 だから何かについて美を見出すことは、およそ芸術を志した人間であれば義務なのだが、その前提が共有されているだろうか、というのを写真界隈を眺めているとよく思う。要は「これが美しいと思うんですが」という提案ではなく、「これ美しいって言われていますよね。私もそう思うんですよ」とオタクが二次創作しているような横並びの感性で作ったものばかり目につくのだ。

 それはそれで、たまの休みにシャッターボタンを押しまくる遊びに耽るのも良いことだと思うが、もう一歩踏み込みたいのであれば、世の中の他のあれこれと同様、前提から疑ってかかる必要がある。むしろ前提の疑い方こそが個性の発露なのではないか。

 スナップをしていると良いと思うのは、その前提、何が美しいかを、自分の身の回りのものからひねり出す必要にかられるからだ。頭を巡らせても取るに足らないもの見当たらない。珍しいものを撮るのは金も手間もかかって面倒だ。だが写真は撮りたい。そうして無理やり撮っているうちに、ふとした美の萌芽に気づくのである。
 これは良いトレーニングになる。だからこそ決まった被写体を相手にシャッターボタン押し遊びをしたい人には苦痛でしかないのだ。撮る人間が被写体ばかり見ており、写真を鑑賞する人間として鍛えられていないから当然である。

 被写体の世に認められた美しさで勝負しようとすると、それは珍しい風景選手権、珍しい電車選手権になるしかなく、少なくとも私の写真遊びの本質からは外れてしまう。被写体の珍しさは鑑賞者に対する親切心、もっといえば媚びであって、そこでは美しさも珍しさと容易に交換可能であり、無個性である。

 だからこそSNSのような場では称揚しやすいのであるが、表立って食うためにビッグバンドをやっていても、それに飽きて裏でジャズを改造して、果てはビバップやモードを発明するような、そういう気概は持ちたいものである。表裏が一体だからこそ厚みが生まれる。

 写真作家に転向したいのであれば2~3年は商業を撮らない方が良い、というのをどこからか聞いた事があるが、最近になって商業写真のこういった腑分けが冷静に出来るようになってみると深く納得する。来たボールを打ち返してホームランを狙う商業撮影仕事と、野球とはなんだろう、とゼロから考える作家業は根底から違う仕事だ。世の中には賢い人がいたものである。

被写体の珍しさと図形としての美しさの高次のバランスを目指す。

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