見る者の目にしか宿らない


 田舎に住んでいるのでよく鳥を撮っている。

 写真として眺めてみると、鳥が首を傾げれば何か疑っているように見え、一羽だけ離れたところに留まっていればハブられているのかと想像するが、実際に鳥たちが何を考えていたかは鳥のみぞ知る、である。

 これは改めて考えてみれば建物を撮ろうが人物を撮ろうが同じことで、むしろ作家として写真を撮るのであれば、鳥を鳥として撮っている場合ではないように思う。つまり人物モデルにせよ鳥にせよ風景にせよ、そこにあるものはただ写真を作り、感情を共有するために借りているということだ。意地の悪い表現をするのであれば写真のための道具である。

 ただそれは撮る人間が撮られる人間や物を道具扱いして良いという話ではなく、撮影者も同時に写真を撮る道具なのである。だから被写体と撮影者は等しく写真に仕える存在である。

 モデルという言葉はラテン語のmodulusから派生しているという。英単語のmodelになってから、長い歴史の中でさまざまな意味が生まれたが、写真のmodelは工業などで使われる「型」という意味よりも「模範とするもの」という意味だろう。語源のmodulusはあれこれ規格に沿って作られた部材を組み合わせる際に使われるモジュール(module)の語源でもあり、modelとmoduleはかなり近い言葉である。どちらも要素という意味合いが強いようだ。

 写真モデルの役割は何かというと、撮る側からすれば写真の要素とするべく形を撮るものであり、なぜ形を借りるのかといえばその肉体を二次元の情報にするためである。情報という言葉を使うからといって無機質なものとは限らず、むしろ有機的な人間がモデルになるからこそ、無味乾燥な記号以上の意味が生まれたように見る者に感じさせる。

 このモデルという言葉は飽くまで人物写真作品を作る際に形を借りる人のことを指しており、ドキュメンタリーの被写体となる人物のことを指していない。逆にいえばその違いがモデルと通常の人物被写体の違いだろうと私は考えている。

 だからポートレートで被写体人物の内面まで映し出すような、と言い出すとちょっとややこしいなと感じる。
 写真を撮る側が、例えばまるで他人には見せないような表情だな、と写真の鑑賞者に思わせるためにそうした演技をモデルにやってもらっているのか、それともドキュメンタリーとして撮っているのか。ふたつのアプローチは近いようでいて実際にはだいぶ距離がある。

 結局は写真を見た人間がどう感じるか、それをどれくらい積極的に演出していくかという話になるのだろうが、わたし個人としては人物には演技を求めるよりも、ドキュメンタリー成分が多いものが好きだ。時折、撮る側も撮られる側も想像しなかった瞬間が訪れて写真に見える形で記録されることがあり、そうした偶然性が面白いのである。

 そして見る人はそこから様々なことを読み取る。モデルの表情のみならず、直線曲線、グラデーションの様子から、鑑賞者はそれまでの人生で摂取してきた様々な情報と照らし合わせて一定の感情を抱く。そのコミュニケーションが本質であり、モデルが誰かなど実はどうでも良いのである。

 モデルの名声が高まるのだとすれば、表情も含めた身体表現からそうした感情を呼び起こすのに長けている人のことだろうと思う。日本的な表現をするなら依代という言葉が一番近いような気がする。

 鳥は鳥で、人間が撮っているのを意識して必殺の決めポーズを繰り出しているのかもしれず、意思の疎通が不可能だからこそ面白い。少なくとも姿かたちを借りているだけ、というのは鳥相手でも人物相手でも変わりはない。尊重していきたいものである。

タイトル「孤独」にしがちな一羽だけそっぽを向いた状況


コメントを残す