トリミング考


 写真は通常、一定の四角の中に納まっているが、その四角を小さくしたり、ついでに縦横の比率を変えたりすることをトリミングと呼ぶ。

 私は写真の話をする際、「与えられた四角に対してどう構図を作るか」という表現をする。それは一定の四角の中に、画角やボケなど情報を整理するツールを使って良い塩梅で整理して納めるのが写真の本質だからだ。四角の中が世界の全てでり、写真の四角から外れたら世界は存在しないのだ。後から「実はこうだった」と言い訳しても仕方がないのである。

 世の中、「実は」をくっつけてしゃべる人は、自分の話が他人にとって真実性が薄いと知っているものだ。だからこそ「実は」で重みを増そうとするのである。トリミングするだろうな、と思いながら撮るのは、私からすればそれに近い。

 写真教育としては現場でやれる限りのことをやっておかないと後から取り返しがつかない、という考えを脳内に埋め込まないと始まらないので「トリミング当たり前で撮っていると上手くならんよ」という方針でやっている。

 運営しているオンラインサロン内でもそれは同様で、サロン内は道場だから内部で投稿する写真は基本的にトリミングご法度ということにしてある。撮影時にそのつもりで撮っていれば、という前提でアスペクト比の変更だけは許可している。

 これがサロン外に出てしまえば事情はがらりと変わる。作品としては良識の許す限り何をやっても良い。さすがにドキュメンタリーと称しているのに、あったものをなかったように、なかったものをあったようにする加工をすれば、それがバレた時に非難の対象になるだろうが、トリミング程度のことであればドキュメンタリーであっても日常的にやっているだろう。目的が修行ではなく結果を出すことに替わるから当然のことだ。

 トリミングは「するべき」ものではないが、「してはいけない」ものでもない。

 しないほうが良い理由は以前Vimeoで販売している教材動画にまとめたが、これはほとんど写真を撮る側の美意識と良心の問題であって、たとえばデザインとして写真を使う側に「トリミングするな」と強要するものではない。商業仕事であれば、デザイナーに横位置で撮った写真から縦位置で切り出されても構わない。写真作品を撮っているわけではないし、こちらの了承を得て著作者人格権をクリアしてくれていれば良いのだ。

 要はトリミングをしないというのは、撮影時の画角を尊重したい気持ちだ。
 写真が写真としてどこで踏みとどまるかといえば、撮影のテクニカルな面からいえば画角以外にないだろう、というのが私の考え方で、写真はただ被写体と背景が何となく写るものではなく、画角により被写体と背景の関係を決定するものである。現場で画角を決定して撮ることこそが写真撮影の中核なのだ。

 何か被写体と背景を撮るとして、広角レンズを使うなら広角レンズを使うなりの理由が撮影時になければならない。トリミングはそれを後から崩すことに他ならず、撮影時の決定を覆す行為であり、そうでなければ現場での判断が不十分だったと認める行為である。どのみち格好良いとはいえない。

 だから逆にいえば画角を尊重しなければトリミングを忌避することにほぼ意味がなくなる。
 画角によってもたらされる視覚効果よりも優先したいものがあるのなら、そして他の条件と照らし合わせてトータルで求める結果に近づけるのであれば、トリミングは肯定されるのだ。

 むしろ、ヨーロッパの人々など画質ががさがさに荒れた、どう見てもトリミングしまくっただろうというカワセミ写真のようなトリミング済みらしき作品を出していることが多い。あれはひょっとすると画質が低下している方が当事者や周囲の鑑賞者にとって気持ちが良いのかもしれず、可能な限りレンズとセンサーの画質を保全しようとする私のような考え方をする人間は、あちらから見れば図鑑型の撮り方のように見えるのかもしれない。

 最近はじわじわ作品型の考え方に切り替わってきており、そうすると過程よりも結果を求めるようになり、トリミングも「やりたきゃやりゃ良いじゃないの」と思うのだが、後から構図を動かしても良い結果を導き出せることが滅多にない程度にはトリミングをしない撮り方で慣れてしまった。これはこれで良いことだろうと思う。


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