創作で使う脳の部位


 最近、何の成果も出せないまま、毎日夏休み生活を満喫してしまっている。

 これではいけない、これではいけないと思いつつ結果としてほとんどなにもしていない状態は背徳的な心地よさも感じさせつつ、普通に仕事をしている時よりも、遠くから着実に死がこちらに向かってきているのを感じさせる。これで飲酒癖やギャンブル癖があったら本当に身を持ち崩していただろうと思う。これはストイシズムに由来するというよりも、糖分以外のケミカルな刺激に好意的でないことが理由だろうと思う。

 日によって朝スナップを鳥コース、猫コースと切り替えて楽しんでいるのだが、朝スナップは至上の喜びかつコロナ禍で弱った体に対するリハビリテーションではあるものの生産性のあるものではない。作品脳で自分の写真や撮影を眺めてみると、つくづく作品という感じではなく技術の証明である。

 技術の証明を否定する気は全くないが、そこで証明されるのは職業的な技能であって、他者に効率よく何かを伝えるためのものだ。表現というのであれば、そもそもの部分、すなわち感情の源泉を掘る作業をしなければならない。

 逆にいえば技術は感情の源泉がそこにあるのが前提で振るわれるものであり、それの調整弁の役割を担うものだ。技術だけでは作品にならない。つまり何を撮るか、どう見せるかをディレクションで決定し、それをテクニシャンであるカメラマンがデータとして扱える二次元に固定する役割である。調整弁とはいったが技術がなければ感情も形を得ることはないのだから、立場によっては創造主のように見えることもあるだろう。

 作家というのであればその二者の役割を同時にせねばならない。要は自分でネタを振って自分でそれを形にする2つの仕事を並行するのが作家である。文章でも指定されたものを指定された出口に向かって書くのはライターであり作家ではない。

 見る側からすれば、どこかの誰かの作品を、作業の側面から見たいわけではなく、企画立案から「なぜ」それを作りたかったのかを、作品を通じて知りたいものである。どうやってその作品が出来上がったのかの技術的な側面は作品に対する興味あってのものだ。そう考えると作品は技術のものではなく情動のものである。職人脳の私にはその根本の部分が分かっておらず、現在Artgeneに並べているのは、何かのエラーで感情が宿ってしまった写真である。

 だから風景をただ風景としてズブズブの具象で撮っても、主体は風景そのものに感じられて撮影した者にさして興味を抱かないのである。マッターホルンがただ綺麗に写った写真を見ても、「マッターホルンだねえ」としか思わない。その風景を撮るに至ったのっぴきならない理由があるように感じられないと作品然としないのだ。

 写真が下手な写真作家がたくさんいるのも、その点を考慮すると当然のことである。
 職人の私から見れば、写真が下手な写真作家は住む人の動線を考えない観念だけの建築家のようで心許ないが、見る人が写真作家に何を求めているかといえば技術よりも感情である。優先されるべきなのはそちらだ。感情の商売が作家だと言い換えても差し支えないのだろう。

 写真は歴史が浅く、当初は「写っている!」という驚きと利便性で重宝がられていたが、スマホ全盛の現代では写ることにさしたる意味は感じてもらえず、見る側は何が写っているか、撮る側は「どう」写っているかに強い興味を持つズレがどんどん大きくなっている。作品でコミュニケーションしたいのであれば、そこから見直さなければ話が始まらない。

 やはり感情の源泉を掘り当てなければ話は始まらないのだ。試掘に次ぐ試掘でやっていくしかないが、感情を扱うのは現実の事物が相手であっても多分に創作的であり、思い込みの部分が大きい。私の脳内で使ってきていない部位だから定期的に、かつ強めに電気信号を送って活性化しなければならない。端的にいえばやり慣れていないので大変疲れる。ただのおっさんがいきなり創作ダンスをさせられるような奇怪さ、気恥ずかしさもある。だが何事も慣れである。才能のあるなしは一定やった後で判断すれば良い。


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