プリント販売を再開・Artgeneにて

 依頼の撮影以外で写真を真剣に撮る理由が欲しかった。人によりそれはフォトコンかもしれないし、家族に見せるためかもしれないが、私の場合はプリントを販売して観念を共有したい、と思うことでそのスイッチが入るらしい。

 毎日飽きもせずスナップしまくっており、それはPatreonで毎週嫌がらせのようにパトロン諸氏に送り付けて見てもらっているのだが、Patreonは作品発表の場というよりもひたすらオフショットが連続しているような、くだけた写真コミュニケーションである。写真そのものを見せているというよりも、時系列的に連続した写真を見てもらうことにより、私が撮り手として長期的にどう変化していくかを見てもらうサービスと捉えている。

 最近は商業撮影から気持ちが離れ、脳が作品方向に作り変えられている。その理由の一つがArtgeneでのプリント販売の開始である。

 広義では誰もがシャッターボタンを押せば写真を作品と呼ぶことができるが、私の定義では日常のスナップと作品としての写真はだいぶ違う。ふたつの間を隔てているのは作為の濃度である。

 例えばスナップ撮影の時、街角で人並みが良い感じになってくれるまでどれだけ待つか、というのがスナッパー同士で話題になることがあるが、日常的なスナップであれば私は5分と待たない。私にとっては「ほんの通りすがり」で良い感じになってしまう偶然性に美を求めるものであって、ネチネチと同じ場所で漁師のように待ち続けて撮ったスナップ写真に価値を感じない。

 これは人によってスナップ観は違って当然だから、誰かを責めているわけではない。私がスナップで作品を撮ろうとしないというだけのことである。東洋のブレッソンと呼ばれた(その呼び名自体が実に征服的で不快ではあるが)Fan Hoのように、スナップのような体裁を採りながら、実際は計算し尽くして撮っているタイプの写真家もいる。

 私にとっての作品とは、写真全体からムンムンと作為が漂う、「こうなるしかなかった」画作りのものである。気軽なスナップ撮りをしていてそうなってしまうこともあり、そうした運の良い写真もArtgeneでは販売しているが、作品を撮る場合は基本的にスタート地点を撮影よりもいだいぶ手前に設定し、偶然に頼る部分を減らす。

 これまでそうやって達成するべき水準を設定し、クリアするのは依頼の撮影だけで十分だった。スナップは修行の場でもあるが、やはり自分の楽しみのために撮ってきた部分が大きい。結果を求めず、プロセスを楽しむのが私にとってのスナップなのだ。今後は仕事の撮影をしていた分の情熱とリソースを作品制作に充てて行きたい。

ウラジオストクの鳩も販売中

 何より面白いと感じているのは、Artgeneを、作品だけ並べて「さあどうですかお客さん」と提案し、判断基準が「買うかどうか」だけというシンプルなコミュニケーションの場として捉えると、では買われるために一体何が必要なのか、と考える良いトレーニングになることだ。そうした思考法を身につけることは作品を撮る上で最重要だろうと思うし、私にとってはフォトコンだのなんだのは、本来その先にあるものだ。

 つまり、よく分からないが「良い」写真を撮り、それをフォトコンに応募して誰かにハクを付けてもらうことを考えても、それは感性をフォトコン運営の人材に委ねているに過ぎないから意味がないのだ。評論する側の能力は誰が問うのか疑問が残る。

 私からすれば、その写真を強烈に飾りたいと思うかどうかの1対1のコミュニケーションがスタートであり同時にゴールであって、強烈に飾りたいと思う写真であればそれは「良い」写真なのだろうと思うしかない。どのみち日本に写真プリントの市場はほぼないのだから、私としてはB to CどころかC to Cで良いのだ。

 これまでSNS的な「良さ」についても、自ら身を乗り出して追求する気持ちにならなかったのが、プリントで売れるかどうか、すなわち「飾れるかどうか」基準での写真の良さについてはグッと共感している。飾れるということは毎日目の端に入るのが前提だから普遍性が必要だ。滅び始めた肉体を持つおっさんだからこそやるべき仕事という感じもする。

 少なくともしばらくは、写真については日々の楽しいスナップを撮りつつ、作品としての写真、飾りたくなる写真を追求しようと思う。

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