作者と作品・ネガティブな繋がり

 なんとなく前回「作品と付随する情報」からの続きというか補足のような内容です。

 前回のブログの主旨は、作品を買う際にはそれに付随する情報があったり、作者がどういう人か分かっている方が欲しくなりやすいよね、というお話でした。

 今ふと思ったのですが、これは逆に働くと、坂本龍一氏が「たかが電気」発言をしたことでYMOだの戦場のメリークリスマスだのを純粋に楽しめなくなってしまった状態になるのでしょうね。

負の情報

 暖かな日曜の午後にふさわしくない、暗い話題になってしまうのですが、作者と表現物の印象はどうしても繋がってしまうことが多く、とくにネガティブな面で目立ちやすいですよね。

 アラーキーの写真を愛好していた人が、自分の部屋の壁に飾ったアラーキー写真を見るたびに「そうは言っても、このモデルさん搾取されていたんだよなあ……」と微妙な気持ちになったり、広河隆一氏のDays Japanを支援していた人が「つっても自分より弱い立場の人間に性暴力を加えながら人権だなんだ綺麗事を言っていたのか……」と暗い気持ちになったりするのは、「作品と作者は切り離すべき」という綺麗事を打ち消すだけの負のエネルギーを持っていると思います。

 むしろ、搾取されていたモデルさんと知ってしまったのに、その写真を見て暗い気持ちにならない方が人間としては心配です。私は作者と作品が繋がってしまうのはポジティブにせよネガティブにせよ厳然たる事実であり、またそう思う人の気持ちを無理に止めたり責めたりしても意味がないじゃないの、という気持ちでいます。人間とはそういうもの。

 そもそも切り離す「べき」というべき論は一体どこの誰が担保しているものなんでしょうね。

フェアネス問題

 嫌いな人の作ったものは嫌い、というのを評論家や賞の審査員がやってしまうのは建前上まずい筈ですが、有力な写真家が自分の弟子に授賞したり、「なるほど審査員の顔ぶれを見ると好まれそうなもの」という偏った作品が文学賞を受賞しているのを見るにつけ、まあ人間だからしょうがないよね、あとはどれだけ歯を食いしばってフェアネスに寄せることができるかだよね、という気持ちです。

 たとえば人間も動物ですが、動物の本能だけで動く人は社会からパージされても仕方がありません。それと同様に、作者に対する好き嫌いを作品に対する評価と結びつけてしまうのは、人間として当然の感情ですが、それは動物の本能に近い感情ですから、時により立場により、ぐっとこらえなければなりません。

 政治的な偏りから党派性ありきで作品を評価するのは、私からすれば「動物としてはアリだけど評価するプロとしてはダメ」なのですが、色んな評論や賞でガンガンやってますよね。賞の場合、どんな作品を選ぶかで審査員が社会から審査されているのに気づいていない場合すらあります。

 好み丸わかりの選考をしてしまった人たちは歯を食いしばって自分たちのフェアネスを世間に見せることが出来なかった時点でダサいし、ダサい人が審査をしていれば賞がダサいと目されて価値が下がるわけですが、だからといって攻撃しても何かが変わるわけではないといいますか、ちょっと一般市民から言われて変えるくらいなら主催者側も最初からダサい人選をしていないわけでして、なかなか厳しいものがあります。下手をすると当事者たち全員がダサいことをしているな、と気づいていても、しがらみがあって変えられない場合もありますね。

 それは優しさというより単に勇気がないだけなのですが、結果としてダサいのは変わりがありませんから、意識的なアンフェアも無意識のアンフェアも一緒です。

 このあたり、賞というもののパワーと欺瞞については、サノケンオリンピックエンブレム問題あたりで世間一般までもが「おや?」と気づいてしまいましたね。

 私はこのジャーナルブログを軸にした撮影活動を自分の仕事と認め、それを粛々と進める上で自分と自分の作品をどう考えているかというと、前提として人間という生き物は作者と作品を繋げてしまうもの、という感覚でいますから、見る人買う人も、良かれ悪しかれ、私に対する偏見ありきで見るだろうなあ、と考えています。

 虚偽に基づく人格攻撃が加えられたりした場合は別ですが、「伴がキライ」「だから作品もキライ」というのはまあ、しょうがないと思うんですよね。いや君は間違っている! と指摘しても意味はありません。フランス料理が嫌い! と言っている人を説得しようとしても、嫌いなものは嫌いなんだからしょうがありません。むしろ変にオーソリティぶられるよりはフェアという気がします。

じゃあ

 それではどういう人がこのジャーナルブログを通じて相手になり得るのかな、と考えると、最初から私のキャラクターが好き、という人はまずいないでしょうし、キャラクターが好きでなくとも写真や文章が好き、という人はあり得ると思いますから、まずは表現したもの、作品、成果物から「お、良いんじゃないの」と入ってきてもらうのがベストなんでしょうね。流入経路はまあSNSとGoogle検索がほとんどになるでしょう。

 写真を撮るので、最終的にリアル作品である写真プリントを買ってもらうのが目標ということになるのかもしれませんが、私としては、私の方から「これを! さあ飾って!」というアプローチの仕方よりも、「あの写真が飾りたい」という要望がお客さんサイドからあるのが理想だなと思っています。

 またプリントを売って食うのは写真家の夢といいますか、本来写真家といえばそういうものなのでしょうが、私はそういう意味では写真家を目指すのをちょっとやめておりまして、このジャーナルブログを中心とした情報作りとそれの販売でトータル的にお金が儲かれば良いなあ、という感じでいます。まずは海外に取材に出る際の取材費捻出がこのブログとPatreonだけで成り立つようにするのが目標です。

 プリント販売を目標に設定するのであれば、自分の知名度を上げるのはプリント販売に寄与するでしょうから知名度を上げるべくあれこれ動くことになるでしょうね。賞を狙うのは、経済的な面では知名度を上げ、専門家のハンコを押してもらって写真が「良い」ことを担保してもらう効果があります。

 欧米であれば展示即売会写真展を繰り返すのが名も実も採れて良さそうですが、日本ではなかなかそうはいかないようです。ギャラリーにプリントを買いに来る人たちは「誰がその写真の価値を担保するのか」が大事ですから、そちらの担保を得るための活動が実は膨大になりそうなんですよね。
 ですから日本の場合とくに賞を目指すべきなのでしょうが、賞を獲ったところでどのみちプリントが売れるようになるわけでもなかったりと、動く気になれない要素が多いんであります。基本的に名誉だけですね。

 写真集の出版を目標に設定するのであればもうちょっと流れは変わってきて、ファインアート販売というよりも一応商業出版の範疇になるのでもう少し開かれた世界ではありますが、アート人文系写真出版社みたいなところの場合、コストがかかるわりに爆発的なヒットは望めないのが写真集ですから、ペイするために「じゃあ自腹で写真展をやって宣伝してくださいね」みたいなことになります。自費出版に近づいて行くんです。

 日本のアート写真で育った人であれば、有名なアート人文系出版社から写真集が出版されるのは、たとえばレコード業界でいうElektra RecordsとかGeffin Recordsからアルバムが出るみたいなもので強い憧れを抱いたりするのかもしれませんが、私そういうものに対して一切の感傷を抱かないおじさんですから、「誰がより喜んでくれるのか」の基準でしか動きません。

 しかもプリントを販売するのは先述の通り「これ欲しい」と注文を受けるのをメインにしてしまおうかと考えておりまして、そうするといわゆる旧来の写真家の動き方とはだいぶ違って来そうです。このブログに、掲載した写真をざば~っと閲覧できるギャラリーみたいなものがあったら面白いかもしれませんね。

 そうして見つけてもらったお気に入り写真を、WEBショップにプリントサイズのみ明記で「A3ノビプリント権」みたいな出品をするのが一番やすいやすいかもなあ……と思いつつ、ひょっとするとWEBショップで利用しているBASEはそういった出品を認めない可能性もあるのでリサーチが必要ですね。

 そんなこんなで気づいたら午後に入っておりました。今朝撮りレンズテスト写真のRAW現像に戻ろうと思います。

 それではまた。

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