ハードボイルドのような写真が撮りたいか


 いつだったかSNSで目にした「ハードボイルドは男の甘えの結晶」という言葉が脳裏にこびりついて離れない。けだし名言である。

 本来であれば出典を明らかにしたいのだが、mixiかどこかで目にして強烈に印象に残ったものの、サッと流れ去ってしまって現在ではGoogle検索でも引っかからない。たしか投稿者のお姉様がそう吐き捨てるように言っていた、という話だったと思う。

 考えてみればハードボイルドは確かに男の甘えの結晶である。都合良く暴力を修辞として使い、都合良く「ボス」と謙ってくれる女が現れ、性の処理までして自尊心を満たしてくれる。対極にあるのがハーレクイン・ロマンスなのだろう。願望だけで形成された実のない天ぷらみたいなもので、愛すべき人間の習性であると同時に、冷静に眺めるとみっともない。

 もちろん願望は願望だからこそ作品の形にする価値があるものかもしれず、すべての作品が実体験に基づいていなければならないわけでもない。むしろ現実の暮らしぶりから強く飛躍できるジャンプ力が問われるようなところもあるだろうし、辛い現実から逃れるための麻薬的な側面もあるだろう。

 写真を撮っているとそうした甘えの結晶作品がそこらじゅうで見られるが、きれいな言葉で表すならそれはロマンなのだろうと思う。

 ロマンで写真を撮るというのは自分の妄想を他人に見える形にして世の中に放り投げる行為であり、「えっ、お前普段からそんなこと考えて生きてんの?」と嘲笑の込められた目で見られることを覚悟せねばならない。耽美耽美で煮詰めたような美麗な文体を書く作家が、だからこそ容姿を問われてしまうようなところもあるのだろうが、ファンは一切気にしないのだから作品の持つパワーは強い。

 そういえば明治や昭和の文豪は私生活が乱れた人間が多く、現代の感覚でいえば週刊誌ネタになるどころか世間から本当に弾き出されそうな人間がたくさんいるが、あれは自分の欲求、妄想を形にして売り物にする商売をする人間だから、欲望に対して正直になり過ぎ、そうした善悪の境界がゆらいでしまったせいなのだろうと思う。

 自ら作品を撮るぞ/書くぞ、と思った際、どれだけロマンを混ぜ込むか、どれだけ自分の欲望に正直に作るかが問題になる。あまりに淡々とした日常に満足してしまっているのは、ロマンを描くという意味ではよろしくないに違いない。抑圧されていてこそ飛躍が生まれるのだ。そう考えてみると、自分が抑圧されていると感じることをテーマに持ってくるのが良いのかもしれない。

 ひょっとすると作家としてものを作る動機は、私のように満たされた人間がさらなる加点を求めて作るものではなく、少なくとも当人が圧倒的に欠乏していると感じる何かを埋めたくて生じるものなのかもしれない。

 ジェームズ・ヘットフィールドが結婚した93年以降、メタリカの演奏が攻撃性を欠いたものになったようなのと一緒だろう。よほど満たされてしまったらしく、それ以降のメタリカの演奏は消化試合のような雰囲気である。これは円熟味を増したと形容することも出来るから必ずしも悪いことではないのだろうが、攻撃性という点では間違いなく93年がターニングポイントである。

「やらざるを得ない」レベルの強い動機を自分の中に探すところがスタート地点だし、その動機に合った容器を探して作るべきなのだろうと思う。そこがふわふわしていると、ただの甘えの結晶にしか見えないに違いない。


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