カメラマン業もはや20年を迎えようとしている。おかげで趣味的な領域で写真を撮っていても職業カメラマン脳が抜けない。宿痾である。
現在も職業カメラマンは継続しており、小さな事務所兼撮影スペースが確保できているので、そこで静物撮影を日夜こなしている。最近「商品撮影のご案内」というページも作り、合わせて紙のパンフレットを作ってまだ見ぬクライアント向けに営業しなければと言いながら、気づくと1年が過ぎていた。いけない。常滑は自堕落に暮らすのに快適すぎる。
気づいたら2年前になっていてびっくりした近江八幡訪問の際の写真を改めて振り返ってみると、まだまだ商業カメラマンとして撮って選んでいるなという感じが強かった。
そもそも文章だけ見てみても、むしろ編集後記の方が紀行文のようで、本編の前後編は旅行ガイド的なものになってしまっている。そしてそれに付随して写真も親切をベースに、情報を盛り込んだ分かりやすい写真を撮り、選んでしまうのである。職業カメラマンの心の赴くままに撮って選ぶと、自動的に旅行ガイドになってしまうのだ。例えばこういう写真だ。





正直に言ってこういう写真は得意だし、寝ていても撮れるくらい体に馴染んでいる。現地の被写体をそのまま使い、嘘をつかない範囲で好ましく、媒体での使いやすさを目指して撮るのである。
しかし「伴がどこそこへ言って思ったことを書く、それにくっつける写真」ということで考えると、上記のような写真は説明的すぎていけない。このような情報量の多い写真が掲載されているのであれば、文章は具体的に読者が現地を訪れた際、目にするであろうものを先回りして教えなければならないだろう。やはりそれは旅行ガイドである。
そうではなく、紀行文は紀行文なのだから、読者が文章を読んで実際にそこに行くかどうかはどうでも良いのだ。
たとえば田山花袋の紀行文を読んだ人が、その文章のとおりに街道が走っており、店があり、現地に同じ人がいることを期待するかといえば、恐らくそんなことはないだろう。私淑しているような人であれば、聖地巡礼として足跡を辿ってみることはあるかもしれないが、細かいところで文章と事実に食い違いがあったところで、文章で記されていることは田山花袋の内面に起きたこと、彼がそう感じたということが何より重要なのであって、ある意味フィクションとして受け容れられる。それがつまり旅行ガイドではないということだ。
この紀行文と旅行ガイドに大きな違いがあるのと同様に、観光地の親切な説明写真と、紀行文の挿絵になるような印象を写した写真の間には大きな違いがあるのだが、仕事であまりに「これを見てください」と明確な被写体を具体的に撮るのに慣れすぎてしまって、どうしてもそういう撮り方になってしまう。
しかしそうも言っていられないので近江八幡の写真も撮ってきた中からなんとか印象寄りの写真をピックアップすると、こういう形になった。





広角でも望遠でも、情報量が少ない、説明的でない写真が主体になった。
近江八幡がどういう町であるかの説明の義務を負っていないこと、著者が現地に言って文字通りその日その時の「光を観た」ことが読者と共有できることが、言葉にすると写真に求められることだろうと思う。
つまり写っている被写体で「こういうものがあるんだな」と、たとえば料理や建物などを見せて理解させるのは観光ガイド向けの写真であって、紀行文写真(これは今後、紀行写真と呼ぼう)はその義務を負っていない。かわりに「空気を伝える」「視点を伝える」ことが使命である。
私にとっての紀行写真は、ブログの挿絵であり、またブログのアイキャッチ画像であり、その紀行を代表する写真であり、小さくプリントして飾るものである。そう考えると余計に情報量の多い説明写真は要らない。
何なら何かにピントが合っている必要すらなく、うっすらとグラデーションが記録されているだけでも「現地の光を記録している」「それが伝わる」のであれば成立するし、下手にびっちりと写し込んでいるよりも適している可能性がある。
ただ、世の中で言われている雰囲気写真のようにボケやブレを使ってそれを手に入れるのも一つの手だが、「びっちり写っているが情報量が少ない」というのも写真としてはあり得る。文章の乾きっぷりと合わせてミニマル写真のような方向性のほうが合っているのかもしれない。
ずいぶんのんびりしたペースではあるが、方向的には間違っていない気がするので、この紀行写真の可能性をもう少し追ってみたいと思う。
