ポトレ考(いくど目かの)


 こんにちは。

 ポトレについてこのジャーナルブログでも何度か話題にしていると思うのですが、日本で写真をやっているとポトレというのが非常に目につきますし、実際に撮るとこりゃ無責任で楽しいや、というので、熱心に写真を撮る人たちの間ではけっこうアツいジャンルです。

 わたくしも先述のとおり、目的もなく、といいますか被写体になった女子がSNSで使って出世するためのツールとしての写真を職人としてどう撮るか的な、写真界隈ではちょっと変わった遊びとしてのポトレ撮りをちょいちょいやっておりまして、これはなんというか無料宣材写真撮影サービスみたいなもんだな、と思ったりします。自分の写真表現どうこう以前に、被写体の人が良い意味でモテる写真にしないとね、というのが前提です。ポトレ的には異端でしょうね。

 相互無償の撮影は互いに納得できる設定になっていればそれで良いわけで、私の場合、人間を写す技術を錆びつかせたくないなーという理由であったり、写真を教える側として「こういう考え方で撮ったらこうなった」という作例利用させてもらえたりでありがたいんですね。被写体になってくれる方はなってくれる方で、それぞれ理由というかメリットがあって参加してくれているでしょうからお互い幸せ。

 逆にいうと、私の場合はポトレで自分の作品を撮っているわけではないので、有償モデルさんにお願いするほどの動機が働かないんですね。

鳩ならポッポレートとか言う奴が絶対にいる。それがインターネッツ

問題

 ただですね、ポトレ特有の問題として、毎週末各地で撮影された女子の写真がぶわーっとSNS上に氾濫するわけです。今の時期だと紫陽花ポトレ紫陽花ポトレ紫陽花ポトレ。私も撮りましたよ紫陽花ポトレ。まるで紫陽花ポトレデータベースを作ろうとしているかのような氾濫っぷりです。しかしSNSで流れてくる他人が撮った写真って、ほとんどどうでも良いんですよね。

 まず情報として見てみたときに、知らん人が写っている写真、でありまして、よっぽどエッチだとか、よっぽど自分好みの女性であるとかでない限り、そうそう興味は湧きません。「フーン」と流していくだけですし、印象に残ることすら滅多にありません。これはもうSNSの特性上仕方がないことでしょうね。

 自分の写真も他人の写真も、消費されるどころか、ただひたすら流れていくだけであり、大きな川の水の一滴でしかない、というのがSNSに流す情報の基本的な捉え方で間違いありません。そういう場では、強烈に酷い写真の方が印象に残る可能性すらあります。

 ポストした写真に対していいねが押された場合、その時点でポジティブな反応を受け取っているのは確かですが、程度問題で考えると、いいねを押したからってアート作品としてそのポトレ写真を買うわけじゃないですよね。

 飾る風習がない、生々しい人物写真を飾れるかどうか、みたいな要素もありますが、「そこまでの『いいね』ではない」というのが一番大きな理由なんじゃないかと思います。これは私自身がプリントを人に売りつけようと思っているからこそ、じゃあどういう写真であれば人はプリントが欲しくなるのか、飾りたくなるのか、飾れるのかというのをずっと考えており、だからこそ気になるところです。

 私自身ポトレ写真を撮ってSNSに「撮ったー」と投げている段階では、その写真をプリントして作品として誰かの家に飾ってもらおうと思っておらず、だからこそ肩の力が抜けた楽しみ方が出来るので良いのよね、という気持ちでいます。つまりSNSは素振りの延長です。もちろんポトレ撮影における気合の入り方は人それぞれですから、もっともっと歯を食いしばって「歴史に残るアート作品を!」とやっている人もいるのでしょうが、技術が及ばずして、なのかSNSアルゴリズムの問題なのか、私のTwitterタイムラインにはほぼ流れてこないので、やっぱりまあポトレって気軽に楽しむもの、という風にほとんどの人は捉えているよなあ、というふうに思います。インスタなんかのほうが作品傾向は強いですね。

 気軽だからこそ価値が生まれにくいし、変に価値が生まれて銭ゲバさんがゴリゴリ参入してこないからこそ気軽にできる、ついでに被写体になってくれた女子の自己顕示欲闘争の武器としても使えてハッピーハッピー、という感じ。私は自己顕示欲闘争も他人に害をなさないかぎりまったく否定しません。顕示するほどの自己が中身として備わっているかどうかは当人の問題ですし、写真は残酷なほど外形しか写せません。たまにチラッと内面が見えたような気がするだけ。それを作為で盛り込むかどうかの話であって……という方向に話が逸れると二度と帰ってこられないので今日はよしましょう。

無目的さに疲れる

 とはいえ、気軽に撮った写真がガンガン流れてくるということは、純粋に鑑賞者の立場でいえば、しっかり鑑賞されることを前提とせず撮られた写真が毎日毎日タイムライン上に流れてくるわけで、一定を超えると「俺は一体なんで知りもしない女子の写真を毎日見なきゃならないんだ?」という気持ちになってきてもおかしくありません。

 私の場合、毎週末オンラインサロン内で生徒さんの提出した写真を添削しておりまして、隔週で各自が好きに撮った写真、入れ違い隔週で一斉に取り組む課題の写真、という形になっています。そこでポトレ写真が提出されるのはむしろ楽しみにしているんです。人物を撮る技術を純粋に評価することができますし、生徒さんの長期的な変化も面白い。SNS上での付き合いよりもより情報量が多いので、その人がなぜその写真を撮ったのかが理解しやすいんでしょうね。つまり知っている人が撮った写真は「いいね」と思う度合いが勝手に高まってしまう効果がそこでは発揮されています。

 それと比べるとSNS上に流れてくるポトレ写真は、ほとんどの場合撮る人も撮られる人も知らん人でありまして、「だからどうした」以外になく、若い女だからどうした、カメラなら俺も持っとるわ、というどっちらけの状態にまでなってしまうと、半強制的にポトレ写真が流れてくるのが苦痛にすら感じられて、どんどんミュートするようになります。

 これは時たまポトレ写真を撮る私ですらそうなので、写真をやらない人からすればもっと苦痛に感じてもおかしくないじゃないかな、と思いますし、おっさんが若い女ばっかし延々と撮っている異様さが際立って感じられて、集団として異様に見えるのは確かだろうなと思います。

 無目的と感じられるということは、撮った人も写っている人も誰を対象にその写真を作って流しているのかが見ている側に感じられにくいということでありまして、それはおそらくポトレを撮っている人たちが、写真を見せる対象を同じポトレ仲間にほとんど限定してしまっているところからも来ている感じがします。商業写真は基本的に見る人のためのものですが、ポトレはどうしても撮る人同士のコミュニケーションのためのものになりがちです。

 たとえばバングラデシュ人がバングラデシュ人のために撮った写真があったとして、それはバングラデシュ文化圏の境界をポーンと飛び越えるようなパワーを持ったものでもない限り、日本人の我々から見るとちょっと分かりづらい、ノリ辛いものであったとしてもおかしくありません。それは文化の違いだからしょうがない部分があります。それに近いものがあるんではないでしょうか。コンテクストの問題といえばコンテクストの問題でもあります。

打開策はないんだけど

 私も一応ポトレを撮る人間として、世間の皆さんからの理解があれば嬉しいなと思うのですが、私自身、写真をやらない人から見れば「おっさんが若い女子の目的のない写真を撮って流している」わけで、まあなかなか理解されないだろうなあ、と思います。だからこそいわゆるポトレ的に「内面を写そう」とか「恋心が」とか浮ついたことは言わず、使う人すなわち被写体をやってくれた女子が使いやすい写真だと良いな、という方向性に徹するようにしています。

 ただまあ、どんな趣味だって一定以上分解してしまえば目的がまったくわからなくなるものです。

 たまの日曜に棒きれで玉っころを叩いて喜んでいる!? であったり、板に車輪が付いたのに乗って滑ってる!? とか。そういう風に突き詰めて考えるのはよくありません。カメラで人間を撮って何が楽しいの!? と問われて「うるせえ楽しいから楽しいんだよ」以外に答えられないとしても何も悪くありません。私もそういう角度から尋ねられたら、詭弁を弄すことはできても本質的な楽しさまで伝えることは出来ないと思います。

 ですからポトレ写真=撮る人が楽しいもの、という風に規定してしまえば、それはそういう芸事なんだから他の人が口を挟むべきことではなくなります。その閉じた状態が良いかどうかはまた別なので、私の認識としてはそこでいったん固定かな、という感じ。だからこそアート作品としては扱われにくいのですが、それが悪いということもありません。

 開いていた方がお金が回りやすいのは確かですし、その内部でブイブイいわしている人が本当に社会的に大丈夫な人なのか、みたいなところが問われやすく、健全に運営しやすくなり、そうするとより優秀な人材が来てくれやすくなるのも事実なのですが、それを望むかどうかも人それぞれですからね。

 あなかしこ、あなかしこ……


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