長野の廃村

 どことは書かないが長野県にある廃村へ行ってきました。今年の春のことです。

 廃村、廃集落は写真を撮らなければ、一生ご縁がないままだったのでしょうが、ひとたびおっさんが写真を撮り始めると「写真にして楽しいものはなにか」ともぞもぞ探し始め、一部がこうした荒れたテクスチャを持った素材にたどり着きます。

 廃村というとその村、集落の歴史や、人がいなくなった経緯の方に着目したり、あるいはオカルト的な角度から惹かれる人も多いのですが、私の場合はひたすらガリガリした木や土のテクスチャがそこにあること、また通常であれば重力と釣り合うように構造を保っているはずのものが崩れている、その逸脱したところに心惹かれています。

 もちろん私が歴史にロマンを感じない人間とはいえ、集落には人の暮らしの痕跡が、家屋の中だけではなくあらゆるところに残っています。
 廃村を撮れば常に「この道をどんな人が通り、どんな人生を送り……」といったことに思いを馳せざるを得ず、廃村そのものがある意味ではそこに暮らした集団の活動記録みたいなものだな、と思ったりします。人の暮らしとその痕跡が、風雪によって削り取られたり植物に侵食されていくのもまた廃村の面白いところ。

 都市部は比較的建物や道路など、堅牢なものであっても必要があり姿かたちを変えることが多く、東京でいえば今回のオリンピックに先駆けて都内のあらゆる古い建物、町並みが破壊され、再開発されてしまいました。あれに一体どういう意味があったのか、そもそもオリンピックに意味などあるのだろうかとスポーツに対する理解のない私は思ったりするのですが、オリンピックはオリンピックで大人の事情的なものがあるのと同時に楽しみにしている人がいて、それと同様に、再開発も「してほしい」という要望があるのかもしれません。

 私が古いものにそのまま残っていてほしいと思う気持ちは、単に写真を撮るのが楽しいから、という個人的な都合でしかなく、実際にその土地や家で暮らす人にとっては一顧だにしない他人のわがままでしかないのは分かっていますから、それに対してどうこう言うことはできません。

 ヨーロッパの古い建物についても、地震がないなど古い建物をそのまま保存しやすい条件があるのは確かなようですが、電気がなかった時代の建物を基本的にはそのまま改造しながら使い続けることに他ならず、様々な不都合があるのは想像に難くありません。実際、日本の新築の建物と比べてしまうとあらゆる点で厳しいと感じます。

 さらにいえば廃村を撮る趣味は、その写真を撮る土地に利益をもたらすものではありません。

 下手をすると荒れたところを嬉々として撮り、それをインターネットで広めて別の廃墟廃村愛好家を呼び寄せて荒らされてしまう危険すらあるわけで、不利益のほうが大きい可能性すらあります。

 そこをなんとか、写真として残させてもらえませんか、というのがこの趣味の外してはいけないところと思いますし、そもそもスナップ写真自体がそういうものだろうと思います。

 というような感じで今日の写真はNikon Z7にLeica Summicron 50mm f2 ROMで撮影したものでした。

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