New FD50mm F1.4


 Lightroomのカタログをまさぐっていたら、2015年頃にSony α7で撮ったCanon NFD50mm F1.4の写真が出てきました。

 このレンズ、私自身はもともとキヤノンユーザーだったのですが、FDマウントのレンズはEFマウントのボデーにくっつけることができず、しかし実家にはCanon AE-1というシャッタースピード優先のAEフィルム一眼レフがあってそのレンズとしてあったりと微妙にご縁があるレンズでありまして、いつか使ってみたいなと思っていたところにミラーレス機であるところのα7を購入したので喜び勇んでFD→Eマウントアダプターを購入して使ってみた次第です。長い。

2段くらい絞っていると思います。多分。

 実際に使ってみると、これが良いのね! いま改めてRAWを見てみますと、レンズで色乗りがしっかりしており、下手をすると少々バタ臭いんじゃないかという感じるくらいこってり。しかしながらキヤノン特有の「おや、キャピキャピした子だと思っていたのに突然ハッとするほど儚い表情も見せるんですね」という感じで一時期どっぷりはまっておりました。

典型的なガウス型という感じ。
絞るときっちり。α7がギチギチ寄りなので余計にシャープに感じます。

 この下の群はおそらく開放ではないかな、という写真で、ぽわーんとしてるでしょ。ヤシコンPlanarほど崩れることもなく、けっこう整然としていながら、開放らしくぽえぽえになってくれるのが実に扱いやすいと感じます。

 絞り開放および開放寄りで花を撮ると儚げ、絞るときちっとエッジを立ててくれるし、現代の特にNikon Zレンズと比べるとボケはごわごわしているのですが、このごわごわがオールドレンズらしくて楽しいなあと思います。

 むしろ現代のレンズって、私の心の中ではボケがきれい過ぎる時も多いよなあ、と感じたりします。

 これはフィルム時代のボケがごわごわした写真を見て育ってきている人間ならではのアレなのかもしれませんが、現在の若い子たちがVHS風に動画を乱すアプリを楽しんで使っているのを見ると、そういうったローファイ、ローテクに対して好感を抱くのは、世代ごとに対象となるローテクがずれていくだけで永遠になくならないだろうなと思います。

 私なんかはファミコンの世代なので、一時期流行った名曲8bitアレンジものは大好物です。たとえばこのあたり。

アレンジが最高です。

 実在しないゲームなのに、まるで自分がプレーしたかのような気持ちになれます。

選択の自由

 常に最先端を選択し、作品にその時代をテクニカルな面から刻むことを旨とするのも良いでしょうし、ローファイな部分をあえて取り入れて、その時代の人に「ほーら懐かしみ成分で気持ち良いでしょ~」とやるのもアリと思います。ローファイであることそのものを目的にしなければ良いということなんでしょうね。それだとローファイ芸になっちゃいますから。

 過去の有名な写真を見返してみると、ほとんどの人は基本的にはその時代の最先端で勝負してきたわけで、わざわざローファイにするムーブが生じたのはつい最近のことかなと思います。デジタルが生まれたからこそのフィルム。これはレンズにもいえることなんでしょうね。収差レスに近づいている現代のレンズを使うか、割り切れなさの残る古いレンズを使うか。それによって当然表現は違ってきてしまうので、欲しい表現に合わせてどういうレンズを使うのかはデジタルであってもフィルムであっても必要な作業と思います。特にスナップの場合はその「古さ」で情緒をコントロールしていく部分もあるでしょうし、富士フィルムの作るレンズが必ずしも現代的とはいえないものが多いのも、そのあたりに理由がある……んでしょうか。分かりませんが。

 私は何かを審査するような立場にあるわけではありませんから、私自身が気持ち良いのであればフィルムに限らずローファイを混ぜて行っちゃえば良いじゃない、という気がしています。私自身、スナップの領域ではパキパキの現代的な写りに「技術的に凄いのは分かるんだけど、それ技術者の夢であって撮る人間、見る人間の夢かどうかは慎重に考えないといかんよね」という立場です。

 まあ何はともあれ楽しいのが一番ですね。そこは最新の機材を使おうがローファイ機材を使おうが、一番伝わってしまうところかと思います。今回の発掘作業はそういった自分のバランスを探る意味でも面白かったです。


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