移動手段による旅感の違い


 こんにちは。
 最近、友人の女性と旅メディアについて意見をやりとりしていた際、意見が軽く割れたのが面白かったのでブログの形にしようと思い立ちました。

 身近なところからいうとSNSで流れてくるちょっとした旅情報や、個人の旅ブログ、業として運営されている旅情報サイト、テレビの旅番組やAmazon Primeなどの旅番組、あとは書籍として刊行されている旅雑誌や作家・ライターの書いた紀行文など、旅メディアってありとあらゆるものがありますよね。そもそも観光産業自体なかなかの規模です。

 コロナの打撃で旅行業界は大打撃を受けたとはいえ、それでも旅行業主要各社は合計売上が1兆円は下らないそうで、大したもんだなと思わされます。美術業界なんて業界全体で2~3000億円規模ですから、旅行業界全体と比べたら一体何分の1になってしまうんだろうと思わされます。

 そんな旅メディアですが、先述の友人と、旅を感じる移動手段ってなんだろうねという話になりまして、その際わたしの意見としては電車など公共の交通機関のほうが、自家用車での移動よりも旅感、言い換えると旅のロマンを感じやすい(感じさせやすい)んじゃないかな、というものだったのですが、女性である友人は、そもそも移動手段に旅を感じることはない、というので、なるほどそれは個人差もあるだろうが男女の違いによるものも大きいのかもしんない、ということになりました。

台湾・十份

移動手段と旅感の強さ

 旅に出ていて強烈に「うおおお俺は旅をしている!」と当事者が感じるかどうかも旅感ですが、旅情報を扱う側として考えてみると、こちらが出した情報を受け取った人が一体どこから旅をムンムン感じるかが一大事です。旅を感じてもらいたくて情報を出しているわけですからね。

 根本的なところでは旅先としてどこを選ぶかが重要でしょうし、その次に誰がその旅を情報化しているのかも情報をセレクトする側からすると大事でしょうから、移動手段だけでその旅情報の旅感の強さが決定的になることは(交通手段に特化したメディアでもない限り)ないのでしょうね。私としては例えば異国の地でボロボロのローカル線に乗って移動して……みたいなものに旅ロマンを感じます。

 旅する側の視点で考えるのであれば、国内では自分の車がありますからいわゆるドアツードアでの移動が可能で、移動手段としてはかなり上位の楽ちんさだと思うのですが、自走の場合は運転に集中していないと危ないですし、なにか思いついてもメモをして、ということはちょっと難しいわけで、電車のように車窓を眺めてあれこれつらつら思い出して……という感慨に耽りにくい気がします。
 つまり運転という作業に没頭してしまうので、旅を感じる度は下げざるを得ません。

 これが移動手段として電車を選んだ場合、駅から駅までしか運んでくれず、しかも時間は他人の都合で決まっている上に、乗り合わせるのは地元の人達で、海外であれば言葉が通じなかったり違ったりと、狭い空間で強く異国を感じることになり、その孤独感と不便さから旅感が強く出る気がします。

 それに加えて移動中は自分で運転することはありませんから、あれこれ余計なことを考える暇があり、旅を感じることが気持ちの余裕の面でも出来るんじゃないでしょうか。そして受け手として旅情報を見たり読んだりする人も、その余剰で生み出される部分に旅を感じるんじゃないかな、少なくとも私はそういう傾向があるんじゃないのかな、と思います。

パリの地下鉄もカッコいいのよ

作業に没頭してはいけない

 古今東西の紀行文を読み漁ったわけでもないので推測でしかないのですが、旅をすること自体がそもそも人生にとっては余剰であり、出張旅行との最大の違いが「無駄を楽しめること」ですよね。その点からいえば、スケジュールがぎっちり詰まった観光旅行はそれ自体がレジャーであっても旅感、旅情を感じにくいのかもしれません。

 私もカメラマン生活の中であちこちに出張撮影に行くことはあっても、毎回訪れる地名が変わるだけで、どこに行っても同じでした。だって出張ですからね。現地で延泊してちょっと観光して帰るみたいなこともデータの保全上望ましくありませんから撮ったら即座に帰ってバックアップ、というルーチンが染み付いており、その感覚をひきずったまま趣味的な領域での旅撮りもしていたところがあると思います。

 また移動手段で拘束されるのが大嫌いなので、移動は優先順位で並べると徒歩、自転車、自走、タクシー、電車、飛行機という感じで、旅の情緒を感じにくいものに偏りがちです。徒歩移動も写真を撮る作業に没頭しがちなんですよね。カフェで休憩してその合間に、みたいなこともほぼなし。旅レベルが低いですねえ。

 だからこそ、台北なんかに行った際も、自分で「これをこう撮らねばならぬ」という設定が出来ないまま、ひたすら適当に趣味スナップを散歩して撮り倒していたわけで、まあ写真撮影の技術でしばき倒す趣味としてはアリなのですが、組み写真としてまとまるわけでもなければ、旅として情報化できるわけでもありませんでした。

 そう、旅は余剰。
 旅自体が余剰であり、その余剰を楽しむからこそ生み出される情報が人に供されて「ああ、これは旅だわ」と感じさせるんでしょうね。

 このブログの記事を作るためにあちこちへ出かけるのは取材撮影であり、余剰とはあまり関係がなさそうですが、もし旅感の強いコンテンツを作りたいのであれば、余剰を強く意識して臨むべきです。こちらが無駄を楽しまないと見ている人が楽しくありません。

TGVの車内に旅情を感じるのか

ちなみに

 冒頭に出てきた友人女性は、「女子の旅は何食う、どこ行く、が優先」ということで、なるほど確かに女子はそうかもしんない、と思わされました。

 不便な移動手段で拘束されながら暇な時間で過去と現在を照応してみたり、そこに蘊蓄を混ぜ込んで自分のインテリゲンチャぶりをひけらかすのは、昭和のおっさんの紀行文あるあるなのかもしれず、私がそういうものを刷り込まれているせいで「旅といえば不便な交通手段」という感覚になっているのかもしれません。

 現代の旅は、属人性の低い、誰かよう分からんがキラキラしているっぽい女性が写り込んだインスタ映えする観光地で他撮りされることで証明されるものという定義付けにスライドしてきているのかもしれず、また現代の紀行文といえば「世界何百ヶ国を旅した!」みたいな人が外国でネタのために無茶をして、それを膨らませて書いて売る変人自慢選手権みたいなものが主流という感じがしますが、オールドスクールの紀行文も恐らく細々と生き残っていくのだろうと思います……というか紀行文は紀行文作家としてストレートに注目されようとすると先述のように無茶をして目立たないと、という戦略を採るしかなさそうです。

 ということは、紀行文はそれを書いている人がどういう人なのかが別のフィールドで証明されていればこそ、その文章に価値が生まれる側面がありそうなので、まずは本業をしっかりやらないといけませんね。考えてみればエッセイってそういうものです。私は働くおっさん取材をゴリゴリ進めていく必要性を改めて強く感じます。


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