ハンティング


 写真を撮る行為をハンティングと捉える男性が多い、というのを以前からちょくちょく耳にしている。たしかにそういうものかもしれない。

 私個人としては、元々あまりスポーツ写真や鳥類写真のように、狙いすまして最高の瞬間を捉えて「やった!」という決定的瞬間志向の撮り方をしない。そうした写真の撮り方は釣りなどと並んでハンティングに属するもので、何か動くものを捉えて自分の手柄にし、仲間内で競う原始的な遊びである。進化の結果、大脳新皮質が拡大したとはいえ、そういう点で人間は太古の昔からさして変わっていない。

欲求

 現代のリベラルに傾いた感覚でいえば、たとえ遊びとはいえお猿さん的な状態に近づこうとする行為は眉をひそめられるものなのかもしれないが、私たちの生殖ひとつとっても原始そのものだし、他の二大欲求も食う、寝るなのだからやることは他の動物と大して変わらない。
 「先進的な」社会においては、そうした原始の衝動から自分がいかに遠いところにいるか、何歩離れることができたかというのを競っているところがあり、それはそれで別種の競争が発生しているに過ぎない気もする。LGBT界隈などその典型だろう。

 そのあたりのことを考えるにつけ、子供の頃、親や周囲からの躾、教育では原始の衝動から離れなさいと強制されるのに、ある日突然子供というのは両親が獣のように交わったから出来るのだ、お前はそうやって造られたのだと生々しい世界の秘密を教えられて驚愕し、少なからずトラウマを植え付けられるのが先進的社会なのだ。

 もちろん躾は大事だし、教育はなくてはならないが、同時に原始の部分を削れば削っただけ偉いというものではない。閉じた安全な社会の中では暴力は避けるべきものだが、その社会の外から敵が攻めてきたらとたんに暴力を有効活用しなければならなくなる。しょせん都会で自分がいかに原始から離れたか誇っている輩は暴力をアウトソースしているのに気づかずにいるだけだ。

 だから私は写真の中にハンティング要素が入ることを否定しないし、それを楽しむことも否定しない。私もたまに望遠レンズを付けて動きものを撮ると実に楽しい。しかし最近、自分があちこちに行ってスナップ写真を撮っている際、超望遠を使わずともこのハンティング感覚になっている部分が結構ありそうだと気づいた。そして同時に、ハンティング的な撮り方では被写体が珍しい場合を除き、第三者から見た際に作品として成立し辛いのではないかと思うようになった。

旅先では他にすることもないのでひたすら撮りまくっている。ロンドンからリバプールに向かう電車の中での一コマ。

飢え

 いつも目の前に動くものが飛び出してくれば何も考えずに飛びつくような撮り方をしてしまっている。いわば撮るものに飢えているのである。被写体の探し方が我ながら倒錯的で、撮って写真にした時に面白い絵面になるもの、という考え方である。間違ってカメラを買ってしまった人間が陥りがちな穽陥である。

 だから見るもの全てが珍しい旅先に出かけると、自分にとっての珍しさを二次元データに変換する作業に没頭してしまうのである。プロセスとしては肉眼で写真にするべき何かしらを発見してからカメラを構えている筈なのであるが、後から写真を見るとまるで顔の前にカメラを取り付けたまま、ひたすら肉眼で見たものをそのまま二次元かし続けたかのように撮り倒したデータが並ぶ。

 それはそれで技能として大したものだと思う。イベント撮影の仕事はその能力がなくてはやっていけない。しかしその技能が最大限の力を発揮するのは「何を撮るべきか」のディレクションが定まっている前提でのことである。そしてまさに、目新しいものを片っ端からデータ化していくのはハンティング的な感覚である。

 脳内の普段の生活で使っている回路をカットし、言語野を介さず画像処理と身体のコントロールを直結してひたすら撮影するのだ。 職人としては永遠にその三昧の状態に身を置いていたいが、作品を作ろうとするとそうはいかないらしい。

 撮る作業はそれだけで独立した楽しみを持っているが、カメラ道楽、レンズ道楽と写真道楽が別ものであるように、ハンティング的な部分と、作品にするべく導いていくのは別の作業なのだ。要は自分の中の職人カメラマン部分ではなく、ディレクターの部分が、何を主題に一連の写真をこれから撮ろうとしているのかをより明確化してから撮影に取り掛からなければならない。

 想像しているだけで面白くなさそうだが、まずはやってみなければ始まらない。このブログという良い実験場もあるのだから逐次試してみることにしよう。


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