写真の技術と心技体的なもの

 写真の技術を扱っている、というのがYouTubeおよびオンラインサロン・虎の穴での私の立場だが、さてその技術とは一体どこを指して技術と呼んでいるのだろうか?

 私の考え方では、写真撮影を心技体的な分け方を見るなら、機材、技術、作家性という形になるのではないかと思う。

機材

 機材はその名の通りどこのメーカーからどういうカメラやレンズや周辺機器が出た、過去にあった、というようなもので、これだけで大きなトピックになるし、私も各所の機材ブログのTwitterアカウントをフォローしており、日々楽しませてもらっている。機材の良いところは、それ自体に色がついていないところであり、対価さえ支払えば誰にでも手に入るところである。

 よほどマニアックな古い機材であれば手に入らないこともありえるが、ebayがあり格安航空券がある現代、手に入らないものはそうそうない。なにせ工業製品なのである。伝統工芸の一点ものではないのだ。

技術

 写真技術は機材によって左右されるところもありつつ、本質的に写真を撮る技術を考えるパートである。絞りシャッタースピード感度のチーパッパを過ぎればあとは延々と構図の話で占められている。画角の問題が出てきたりパースの扱いが出てきたり、地球の自転公転から身体の運用まで話題に上るが、すべての道がローマに通じるように結局は構図のことを違う角度から掘り下げて行くだけだ。

 だから写真技術とは構図のことをあらゆる角度から取り扱うことだと表現しても差し支えないが、それでは不親切すぎて誰にも伝わらないのでもう少し伝わりやすい言葉にしてある。
 私の表現でいえば美人は顔の構図に優れた人であり、美人が何故美人に見えるのか、そうでない顔を客観的に美人に見えるようにするには何をどうすれば良いのか、と云々するようなものである。食うものから塗るものまで幅広く議論の対象になるのは誰しも想像できるところだろう。撮影技術も似たようなものである。

作家性

 では最後の作家性というのはどういうものかというと、これまた範囲が広い。
 写真を志した人間が写真作家をやろう、と思い立ったとする。彼ないし彼女は、写真を撮るだけではなく、その撮られた写真が作品として扱われ、価値を持つことを望むようになる。すると、撮影時点やその前まで遡って写真作品とは何かを考え、その作品が作品としてテーマ含め認知されるためには一体どうすれば良いか、ということを考えて動くようになる。

 写真作品を写真作品たらしめるために特定の機材が必要になることもあれば、特定の撮影手法を使うこともあるが、基本的にはどちらも大した問題ではないから機材論、撮影技術論とは別物である。むしろ混ぜて語るのは危険だ。

 写真作品が向かう先をどこに設定するかは写真作家および作家志望者が市場をどこと捉えるかによって変化するが、写真作品は概ね社会に向かって何かしら投げかけたいという動機で制作・発表されるし、であればその社会にとってインパクトのあるテーマ設定、被写体設定、撮影方法、組み写真の編み方やそのアピールの仕方までが教育の対象になる。

 私が対象にしているのはそういった作家性の部分を含まない純粋な撮影技術であり、基本的には「きれいに撮ろう」「上手く撮ろう」であって、「見た人がショックを受けるようなインパクトのある写真を撮ろう」「社会を変革するようなテーマを設定しよう」ではない。飽くまで個々のカットが一般的な使用に適したことを目指している。

 これは私が職業カメラマンをやっているからであり、そういった方向で情報を投げ、勉強会をやっているので独習を重ねた会員が勝手にプロになることも珍しくない。プロ養成を謳い、大きな言葉で集客しないので夢見成分は少ないが、そのかわりに情報商材屋のような嘘はない。

バランス

 実際に写真を撮っていると、機材、技術、作家性のどれかだけで写真を撮ることは出来ないのが分かって来る。要はバランスの問題なのだ。商業写真を撮っていても作家性が問われる部分は少しずつ出てくるし、写真作家だってあまりに下手では作品の価値を担保しづらいだろう。超絶技巧である必要はないと現代アートの世界ではよく言われるが、売れているアートはまともな技術で造られている。

 私個人としては、写真技術の奥にぐいぐい分け入りたいが、それだけやっていると誰の役にも立たないデータを量産しかねないのでもう少し作品として成立させる努力をしなければならない。放っておくと無意識のうちに写真技術の発露を目指すので明快なテーマに欠けてしまうことが多く、傍から見た時に難解なのだ。
 組写真が苦手なのも、撮る時点で組むことを前提にしっかりテーマ設定していないのが原因だし、そのテーマ設定が自分なりに上手くいく方法も見いだせていない。アート志向ではないし写真集の出版を目指しているわけでもないのでそれでも構わないのだが、文章と組み合わせて表現するにせよ、せっかく撮っているのだから情熱を分かち合える仲間を増やしたい。

 ひょっとすると世の中の難解に見える作品というのは、ほとんどが似たような原因で難解に見えているだけなのかもしれない。写真文法をそのまま絵として眼の前に出されても、自分が写真を撮る人間でない限り理解のしようがないのである。

 そこをクリアするには撮り方、考え方すら変える必要がありそうだし、テーマ設定も文章と絡めて再設定する必要がある。America in Far East含め、企画の仕方、動き方撮り方の整理を進めていくことにしよう。

 このあたりも写真技術のすべてがそうであるようにバランスが肝心である。

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