精神の平穏と写真

 おじさんも精神が疲れた時はこうしている、という記事を書こう書こうと思いつつ今日まで来てしまった。実際に書こうとしても大した内容はない。なにせ普段から全力でストレスから逃げているからだ。もし日本が戦場にでもなったらあらゆることが思う通りに運ばず、身体の危険まで感じるストレスですぐ死ぬだろうと本気で思う。

 大人であり組織を背負う立場になってしまえば責任からは逃れられないが、責任を負うこととストレスに耐えることは少しベクトルが違うだろう、というのが私の見解である。

 若い頃は仕事で少しストレスレベルが高まってくると簡単に不眠症になったりしたので自分の意外なセンシティブさに驚きつつ「これは向いていないな」というので好きなことだけして生きていけるよう自ら仕事を設計して動く形に切り替えた。
 容易ではなかったが、この数年は上手く行っている。支えてくれる周囲にいくら感謝しても足りないが、それもこちらからのアプローチあってのことである。

 たとえば写真仕事にしても、請負をやめてしまえば自分から仕事を生み出す必要はあるものの、そこさえクリアすれば誰にも頭を下げる必要はない。
 頭は下げる必要がないのに下げるから価値があるわけで、下げて当然と思われているところにへいこらしてやるのは盗人に追い銭をやるようなものである。他人のつまらない自尊心を満足させるために自分にストレスをかけて得られる対価はいかばかりだろうか。仕事にストレスは付き物だが、ストレスに耐えることそのものが仕事ではないのだ。

 そんな風にストレスフリーな暮らしを送っていても、人間というのは生きている限り周囲と接触せざるを得ず、何かしらの摩擦が勝手に生じてしまうものである。

 この摩擦の大小は、たとえば天下国家のような大きな問題と、家庭内で便座の上げ下げをどうするというような小さな問題でどちらが大変、とかんたんに優先順位を付けられない。下手をすると国家の問題よりも便座の方がよほどストレスになることあるのが人間の面白いところである。

 だから私も不眠になるようなストレスはないものの、小さなストレスは生きている以上必ずある。そういったストレスが積もりつもって、また今日のように気候がよろしくないと、どんよりした心身の疲れで何もする気力が起きない、ということもある。おじさんだってアンニュイになることがあるのだ。そんな時どうするか?

魔女の宅急便を観る

 当年とって45歳の私だが、宮崎駿監督『魔女の宅急便』を観て人生で救われてきたことがけっこうあったかもしれない、と思う。劇的な作用ではないのだが、田舎からたった一人で都会に出た少女が苦闘の末、また自分の精神的、肉体的変化に戸惑いながらも自分の居場所を見つけ、自立していくというストーリーはおじさんになってもグッと来るものがある。

 魔女のキキを眺めている時、私のほとんどの部分は彼女が実家に置いてきた舌足らずな父親の視点から彼女を見ているのだが、同時に私の一部はたった一人で都会に出た右も左も分からないキキの孤独感に強く共感し、自分を重ねているのである。このアンビバレントな感じが面白い。この父親視点にすべて振り切らないのは、恐らく私に子供がいないことも影響しているのだろう。

 是非男女問わず年齢を問わず、人生に疲れた時、辛いことがあった時は魔女の宅急便を観てリフレッシュしてほしい。

写真が癒やしになる可能性

 また写真作家と名乗ってはいないものの、写真を撮っては人様の脳内に流し込むのを仕事の一部としてやっていると、自分が撮る写真が良かれ悪しかれ、また積極的か消極的かに関わらず人の目に触れることを考えると、単に撮りました見てくださいでは済まず、何かしらもっと精神に作用のあるものだという前提で撮り、流す必要があるような気がしてくる。

 これは普段あまりに職人的な発想で作業に没頭しているから忘れがちなことであるが、簡単にいえば旅先の写真を見て「俺も旅にでたいなあ」と思ったり「一緒に旅をしているような気持ちになるなあ」と共感してもらったりするのも写真の作用として間違いなくあるのだ。

 あまりに共感を前提に撮るとサービス業になってしまうのでカッコ良いとは思えないが、そうした作用を無視するべきではなく、またPatreonのように定期的に写真を見てもらう場を持っていることで、常に自分の撮る写真がPatreonの会員(パトロンと呼ぶ)諸氏の何かしらの役に立ってほしいと願う気持ちになる。

 願わくば、これから撮る写真が誰かにとって癒やしになったり助けになったりすることがありますように。そう願うことから全ての写真の撮影は始まるべきなのかもしれない。

猫写真が一定の人々にとって癒しになることは論を俟たない。

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