撮らせる・録らせるサービス


 先日、深海に沈んだタイタニック号を見物に行くツアーにまつわる事故の報を目にして、人がレジャーに何を求めるのか再考する機会になった。

 例えばこちらも話題になった公営のプールをオフシーズンに借り切って開催されていた水着の撮影会、これが「けしからん」と県に中止させられたのは、そもそも金銭を支払って被写体を得ることに対し、世間がなんとなく奇妙に感じているのを政治的に利用された部分もあるだろう。

 写真を撮らない人間からすれば、カメラを買うのに金がかかることは理解できても、写真を撮るために金を使うというのはなかなか理解できないものらしい。私自身、写真を始める前に知り合いのおっさんが撮影旅行に行くというのを聞いて「なんじゃそら」と思ったものである。しかもその撮影旅行というのは、風景写真家が案内して風景を撮らせるツアーだという。

 いわゆる撮影会は、カメラを買ってシャッターを切る遊びをしたいが自前で被写体を用意出来ない人に向けたサービスであり、風景写真撮影ツアーは同様に撮影地を自前で発掘できない人が金銭と引き換えに風景写真の被写体を得るサービスである。

 撮影会は女性が被写体になるので、ほとんどの撮影会でどうしても助平心が人間関係において引力を持ちがちだが、逆にいえば風景写真撮影ツアーとはそこ以外で完全に一致している。

 写真は作品として取り組むのであれば、何を撮るかの選定からスタートしている。何をテーマとして撮影するかがその人を語ってしまうともいえる。

 風景写真はそこについてネチネチ追求することをせず、時間軸+地域程度のテーマでも成立させられてしまう具象の世界だから、風景写真家の先生が「はいどうぞ」と提供してくれた場所、時間、構図で生徒数十人が一斉にシャッターを切っても、それで自分の作品が撮れたと満足できる。
 実際、絵葉書みたいな「そのまんま」のトレース写真が撮りたいというアマチュア風景写真家は多い。その感性は撮影会などの場でもいかんなく発揮されており、先生のお手本を一心になぞりながら自分の作品を追求しているつもりになりがちだ。フォトコンはびっくり競争になっているし、そこに作家性というものが発現しているのを目にする機会はほとんどない。

 だから写真の先生というのは生徒が真似したくなるようなお手本を投げてくれる人であり、最大の価値がそこに置かれている。本来の作品性、作者が作者である理由を作品で述べよ、模倣はすなわち人格の模倣であり価値がゼロである、というような常識は通じない世界なのだ。撮影会で撮られる写真も、ただただ女性に向けて大脳の旧皮質でシャッターを切った結果が並ぶだけで、そこに至る考察や苦悩が反映されたものはまずない。ヒーローと苦悩が分かち難いセットであるのと同様、それらも本来は不可分のものである。

 ただそれは作家として振る舞いたければの話であり、写真に対する認識のレベルを下げ、単純にカメラを使う遊びと捉えれば何も悪いことではない。私も作品を放棄して毎日写真遊びに耽っているので被写体に飢える気持ちはよく分かる。自分の技術を叩きつける被写体であれば何でも良い、という気持ちが正直なところだ。むしろそれこそがカメラマン体質かもしれない。

 撮り慣れていない人ほど撮らねば上手くなりようがないのだから、とにかく手当たり次第に撮るべきだ。そのために自前で調達する被写体だけでは足りないから、誰かに手伝ってもらうために金銭で解決するのもひとつの選択である。

 フィールドレコーディングを趣味にしていると、世界中でたくさんのマイクとレコーダーが製造され、販売され、その特徴や使い方をレビューする動画や実際の使用例を見る(聴く)ことができるが、プロのように珍しいものを好き放題録ることができる人間は稀である。ほとんどの人はカメラ遊びやマイク、レコーダー遊びをする私と同様、飢えているはずだ。

 たとえばこのようなマイクとレコーダーが一体になった製品、「こんな風に素晴らしいんですよ」と解説してもらうのに、まったく日常的でない対象を登場させている。カメラ関連でもありがちなミスマッチである。夢はあるが一般ユーザーからすればリアリティはない。

 なにせ人間は珍しいものと良いものの判別が難しい。
 味覚で「甘い」と「美味い」の区別が難しいといわれるように、人は珍しいものを見たり聞いたりすると、それが良いものであるかのように錯覚してしまいがちだ。

 だから珍しいものを撮り、珍しい音を録りたいのだが、自力でアクセスするのが難しかったり、そもそもどういうものが写真や音源にすると面白いのか判断がつかない人も多い。技術は素材を判断する能力も含まれるのだ。どの世界でも上手くなることは目利きになることと同義である。だから趣味であれば珍しい音を録るアクセス権と一緒に、録音にふさわしい音源であることを担保してもらうのも悪いことではない。

本当に必要なのは珍しさと普遍性のバランスかもしれない。

 深海に沈んだタイタニック号を見物に行くために、日本円で何千万円も支払って棺桶のような潜水艇に乗り込むのは私からすればあらゆる点で狂気の沙汰だが、彼らは「珍しいから」それを選択したのだろうと思う。美人も希少価値という意味では同じである。
 日本人のイメージする美形がほとんどのスウェーデンではその美形が当たり前すぎて無価値化しており、北の将軍様のような容姿のほうが希少でありがたがられるという話を以前聞いたことがある。

 であれば、日本の珍しい音を録らせるサービスをフィールドレコーディストたちのために立ち上げたら、海外の富裕フィールドレコーディストから依頼が来るんじゃないの、と思ったのであるが、それはすでにコーディネーターという名前で世界中に存在することに気づいた。世の中というのはよく出来たものである。


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