テーマ設定の難しさ


 小説を書きたい。写真作品も撮るべきだ。どちらも作品として取り組もうとすると、まず最初にテーマを設定しなければならず、そこが私にとっては最大の難所である。

 毎日毎日、飽きもせずに近所や遠征先でスナップしまくっているが、スナップすること、その生活自体が人生としては大きなテーマになっているものの、他者から見て分かりやすくまとめようとすると「常滑の四季」のようにありきたりなものになりがちだし、凡庸なテーマ設定で人を集めようとすると被写体を頑張って派手にするしかない。要は絶景系に傾いていく可能性が高いだろう。しかし絶景系はサービス業のようなもので、自ら時間と能力を使ってまでやりたいとは思えない。

 文章であればいつか社会に爆弾を投げ込むようなものを書いてみたいという願望があり、いくつか書いてみたいテーマがある。写真よりもよほど野心的だと我ながら思うのだが、写真作品のテーマ設定でそのようなものは全く思いつかない。どうしても私にとって写真という芸事は受動的なものである。

 何か記録して後世に残すなり、広く知らしめる必要があるから撮るのだという意識が強く、自分の中の何かしら衝動を知ってもらうために撮るという感じではない。

 最大公約数的に作品写真の動機を考えると「自分が発見した美しいものを共有したい」であり、それはほとんど「見せびらかしたい」に近い感情であって、文章を書く際のように論理を構築して城を建てるように一つの結論に向かってザクザクと歩むような道のりではない。だから私にとって写真は叙情詩ではなく、叙事詩からページを切り取ったようなものなのかもしれない。

キーボードのような美しい配列の護岸ブロック。

 時折女性を撮っていて思うのは、フェチすなわち性的倒錯のある人はとりあえず強いということだ。目の前に一人の女性がいて、その人をモデルとしてどこをどう撮るのか決めなければ写真は進んでいかないが、フェチの場合は特定の部位にまっしぐらである。

 時に「お前もっと自重しろよ」と目を覆いたくなるような表現も多く、エロなのかアートなのかの論争を巻き起こしそうなものもたくさん見受けられるが、本来作品を撮る上で自重している場合ではないのだ。バカになり、表現してみて、しかる後に考えよう、が筋である。特に叙情的なものはその方向で間違いない。

 やってみなければ始まらないが、始めるまでが難しい。撮る実作業は楽しいが、撮影の計画を立てるのは別に楽しくもなんともなく、むしろ苦行である。だから撮影が勝手に入ってくれるのが理想なのだ。作家タイプの写真家はひょっとすると逆かもしれないし、これは撮影前だけでなく撮影後の作業についても人それぞれ好みの違いがあるのだろう。


コメントを残す