「写っちゃう」の感動は無視できない

 先月あたりからnoteに小説やエッセイをアップすることを試みている。更新は捗々しくないが、場所を設定しただけで何かした気持ちになって我ながら微笑ましいものだ。

 ここしばらく公私ともに撮影が忙しく、文章を書けていなかったが、どうにか落ち着いてまた机に向かう時間が作れるようになると、創作文の泥沼をのたうつような進行の遅さに対して、写真の「押せばとりあえず写る」インスタントさが身に染みる。

押したら写った2019年・台南の夜

 写真という芸事は、他の芸事と比べると撮影のインスタントさが抜きん出ているのが特徴で、たとえば一番近そうな絵画一般と比べてみても最初期の修練にかかる時間が極端に短い。カメラを買ってくる気力と財力さえあれば自分の写真がすぐさま手に入るのである。

 これは尺八のような、演奏どころか音が出ないようなところから修練をスタートする芸事と正反対である。特にデジタル写真は楽器でいえばシンセサイザーに近く、フィルムよりもさらに条件が揃え易いから学習の進みがより一層早い。

 また写真を見る人は鑑賞のプロではないことがほとんどだから、その写真の何がどれくらい良いのだ、良いのは被写体か背景か光か機材か構図か、などと分析的に見ることはまずなく、ほとんど全員が被写体を見るのみである。

 だから写真は「何が写った写真」が先に来て、「どう撮っている」が斟酌されることはあまりない。私自身、写真が本当は「どう撮った」を見るものだということを、写真を始めてしばらくの間、知らなかった。ということは、カメラさえ買ってきて、珍しいものにレンズを向けていれば、素人目には最低限それらしくなってしまうということだ。

 そう表現してしまうと奥行きがまったくないように聞こえるかもしれないが、押せばたちまち写っちゃうからこそ面白いという初期衝動は、膨大な量を撮った現在でも変わらない。そのインスタントさこそが写真の愉しみの根幹なのだろうと思う。写すのを面倒にしたから偉いというものではないのだ。

 そうしたある種の軽薄さが写真にはよく似合う。

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