タイムカプセル的な写真


 毎日写真のことばかり考えて暮らしておりまして、脳のリソースを一部はカメラのこと、一部は撮る写真のこと、一部を写真と社会のつながりについて……という風に割り振って毎日あれこれ考えています。

 その中のひとつに、いま撮っている写真の価値って今いきなり定まらないこともあるのが面白いもんだよなあ、ということ。

 ゴッホの例を挙げるまでもなく、芸術作品が作られたタイミングと評価されるタイミングが違うことはけっこうありますし、写真の場合、他の芸術と比べた時にその記録性の高さがキーになるよなと思います。

 写真をそのへんでパチっと撮ったとして、そのときに写り込んだ情報が、撮った時点では写り込んでいることすら気づかれないような平凡なものだったとしても、10年、20年経ってから見ると「この時代はこんなものがあったんだなあ」と時代性を感じさせてしまうものが珍しくありません。

 実際、古い写真を見ていると写っている人じたいが「古いな」と感じたりしますし、その人の着ている服から髪型から、背景部分についても写っている乗り物が古かったり、道路が舗装されていたりいなかったり、今はない建物が写っていたり、写真の中では更地なのに今はビルが立っていてギャップが感じられたり。

 そういうことは絵画なんかでも起きるのでしょうが、たとえば葛飾北斎の有名な絵は「そこからじゃ見えないところが描かれている」という指摘があったりしますから、必ずしも写実的であることを求められているわけではなく、そういう意味では写真のほうが勝手に記録性高く写ってしまうことは間違いありません。

写真と記録性

 写真は撮るだけで望む望まざるに関わらず記録になってしまう、というのは、写真を撮るうえでカメラを使わなければならないのと同じくらい写真を撮る人間を縛ります。

 写真が記録でなければならないのか? という問いかけ自体が、もう写真的であるということすらいえるかもしれないんですね。だって例えば彫刻をやる人が、「彫刻は記録なのだろうか?」って悩むとはあんまり思えません。記録的な彫刻もありえるのかもしれませんが、絵画も写真もあるのに彫刻に記録性を求める人はあまりいないでしょう。

 どのジャンルの芸術、芸事であっても、そういった制約は必ずありますから、写真だけ大変、楽、ということは恐らくないのでしょうが、何はともあれ写真は記録性の多寡、また記録性とイコールではないのですが似たような問題で情報量の多寡が話題になりやすいんであります。

 レタッチしているかどうか問題もそのあたりに起因するものですね。絵画では当然そんなもの問題になりません。

2006年に友達が私のカメラで撮ってくれた写真。記録性そのものだなあ

いまモテたい?

 この記録性について考えていると、写真を撮る上で大事な要素である被写界深度のことが頭に浮かびます。

 レンズの中に絞りという機構がありまして、絞りを絞り込む、つまり光の通り道を狭くすると、ピントを合わせた前後もピシッときりっと見えるようになります。

 はんたいに、絞りを開けていく、光の通り道を大きくすると、今度はピントが合っているところの前後がぼやっと見えにくくなっていきます。これがボケているという状態。

左上が絞りを開けた状態で、右下が絞りを絞った状態ですね。

 ちょっと本格的なカメラを買うと、スマホなんかと比べてセンサーやレンズが大きいので、比較的かんたんに背景をぼかすことが出来るようになります。
 というか、この大きなボケを手に入れるために本格的なカメラを買う人が少なくないんですね。

 すると、なんでもかんでも背景をぼかして撮るようになりまして、私はそれを「開放病」と呼んでいます。何でもかんでも、いつでもどこでも全力で、機材の許す限りぼかすんですね。写真はボケているかどうかだ! みたいな感覚に陥ったりすることもあります。

 写真は「自分の見せたいものを見せたいように見てもらう」のが目標の一つでありまして、大きなボケを使うと、まず背景にそんなに神経を使わないで良いような気がしてしまい、かつ構図上どこにメインの被写体を配置しても、とにかく他がボケていて被写体だけくっきり写っていれば、それがメインの被写体なのね、一番見せたいのねというのが伝わるだろうと期待しちゃうんですね。

 実際はそう簡単ではなく、他の問題との兼ね合いも大きいので、被写体だけがくっきり写っていて背景が大きくボケていればそれだけで良い構図、良い写真になっちゃうかというとそんなこともないのですが、そういう錯覚に陥りがちな年頃というのがあるのです。

 ですから、両方とも手抜きでしかないのですがとにかく背景をぼかしまくる人がけっこうおり、これ情報量で考えるとごっそり減っているわけで、情報が減るということは同時に記録性もごっそり減っています。

いま評価されるのか将来評価されるのか

 情報量の増減については良し悪しの問題ではなく、目的や用途によってOKの場合もNGもあるのでここでは問題にしません。

 わたしが言いたいのは、いま「素敵な写真ー!」とモテたいのであれば情報量は少ない方があれこれ楽が出来て良いかもしれないのですが、将来的には情報量が少ないのってその写真にとっては意外と弱点になるかもしれない、ということ。

 以前Twitterで流れてきた役者の過去写真で、古い写真にしては背景がばっちりぼけているものがありました。恐らく映画のバックステージ的な写真だったと思うのですが、それを見た時の私の反応は「後ろまで見せんかい!」だったんですね。そこでハッと気づいたんです。過去写真の場合は背景もびっしり写っていてほしい、なぜなら役者本人と背景の両方で時代を感じたいから。

 つまり先述のとおり、写真の背景に写り込んでいるものは、現時点では見慣れているもの、ありふれたものなので一顧だに値しないものであるという認識で、だからこそガンガンぼかしちゃえ、ということになるのですが、10年、20年経ってみた時に、「ああこの時代の家具ってこうだったよね」みたいに価値が生まれてくる可能性もあるよなあ、と思うんですね。

 まあだから今日から女子ポトレを撮る時にもびっしり絞りまくれ、という話ではありません。絞りを開けるのが作風という人もいるでしょうから全然OK。

私も便利だからまあまあぼかします。

 ただ、今すぐモテるのを目指するのも良いですが、普遍性を目指して将来的に面白いものを作ろう、タイムカプセル的に埋め込んでやろう、というアプローチで撮るのも面白いよな、それこそおっさんに向いた撮り方かもしれない、という風に思います。

 デジタル写真はパチパチ撮ってすぐに消費されがちですが、気軽に撮れる、ローコストに撮れるという利点を活かして、記録性が高く、かつ美しい写真を目指すのも、まさに長期的な目標として面白いかもしれません。

 技術的には、「背景が過不足なく絵に活かされており、かつ整理されていて構図が美しい」のが、私としても理想と思います。それを満たしたものが、記録として美しい写真なんではないかと思います。

 それではまた。


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