写真集基準で考えてよく分からなくなっていた話


 こんにちは。今年2021年の目標は「真面目にやること」でありまして、2020年および2019年は不真面目だったのかというとそう不真面目だったわけでもないと思うんだけど真面目だったかといえばそうでもなかったためにこういう目標になりました。

 何をどう真面目に、なのかといいますと、真面目に写真と社会を繋げていく努力をせんといかんな~と痛感したんであります。作品を撮って売るのもその一環として、もっとやらねばならんなと。

 昨年末からPatreonでサブスク月額にて写真を見せるぜイエイイエイというサービスを開始いたしまして、サブスクといえば虎の穴という写真サークル的な場も運営しておるのですが、簡単にいえば虎の穴は「写真仲間向け」でありまして、Patreonは「写真が見たい人向け」という感じで、一部被ることは被るのですが想定している客層が違うんですね。

 このPatreonを始めてみたおかげで、日々そのへんをうろうろ徘徊しながらスナッピングする際にも「金が取れるガリガリ写真ってなんだろう」って考えることになりまして、これが非常に楽しい。実際に会員さんがちょいちょい増えてくれているので、明らかにその人達に向かって写真を撮っており、かつTwitterみたいにタダで見られる場ではありません。

 タダでないということは明らかにこちらがクオリティを提示しなければならないわけで、それ自体はもともとカメラマンとしてプロ生活を送ってきているので問題ないといえば問題ないのですが、カメラマン仕事って「これを撮って」と依頼を受けて初めて仕事がスタートしますし、ほとんどの場合「こういう感じに」というのも大なり小なり決まっているんですね。

 それと比べると、Patreonではテクスチャーラブなガリガリ写真コースと女性美を見て幸せになろうコースの2つがあり、どちらも私が自発的にあれこれの選択をして撮っているものであり、またクオリティーの判断も私以外の誰かが写真の提示以前にやるということがありません。

 もしPatreonで会員になってくれた方が、求めているクオリティに達していないなあ、とか、期待するレベルを割っちゃったなあ、と思ったら退会してそれがそのまま数字として見えるわけで、実にシビアで楽しいなあと思うんですよ。

価値の交換

 わたくし写真についてあれこれ考えている時によく思うのですが、写真と社会の間で価値の交換が起きないとまずいよね、と思うんですね。

 Patreonをやっていると、代理店だのなんだのを挟まないB to C的な取引が出来ていいなあと思うんですよ。直接YES/NOがはっきり見られます。もちろんいろんな人に知ってもらう機会が多ければ多いほど会員さんは増えるでしょうから、その方向で動いていくべきだろうなと思いますし、こういうのは芸能人的なキャッチーなポジションにいる人が強いだろうというのはわかります。

 ただ大事なのは本質的なところ、「写真を見て幸せになりたい」を満たせるかどうかだと思いますし、私はそこに照準を定めて写真を撮っていこう、という風に考えています。

 つまり誰かが写真を見て幸せになりたい、と思い、それを私が撮って見せて満たせることが出来るのであればお金になっちゃうよね、という仕事の本質の部分が一番大事だと思うんですよ。

 そう考えた時に、日本で写真をやっていると、アートだ芸術だ作品だ写真作家だとあれこれファンシーなキーワードを目にする機会はあるのですが、基本的に商業撮影をしないと食っていけないのは間違いありません。なぜなら一般に、お金を払ってでも写真を見て幸せになりたいと思う人が少ない社会だからです。

 写真家さんという称号は写真作家を指していることが多く、言われたものを撮るだけの職業カメラマンと比べると高尚な感じがするからなんとなく写真家って名乗りたいし、「自称写真家」ではなくって他人からからちゃんと認められたいんだよね、と思う人がけっこういるのですが、そこの境界線が「写真集を私家版ではなく出版社からちゃんと出していること」だったりします。

 日本での写真家さんというのは、写真家だから食えるというものではなく、裏を返せば写真家と名乗っているからといってプリントを売ってそれだけで食えているわけでもありません。名誉職みたいな扱いですね。実際にプリントを売ることを中心に生計を立てている人が一定数いれば、「いや商業写真で食ってるのは商業カメラマンなんだから、写真作家とはちょっと違うだろ」という話になると思うのですが、そのあたりアートで食える人がほとんどいないので境界を曖昧にしており、写真家さん、写真作家さんというのがふわっとした扱いになっています。

たち現れる写真集信奉

 そういった写真家とカメラマンの境界が曖昧な世界で、俺も写真家って名乗りたいんだよなーという人が何を考えるかというと、写真集を出版しているかどうかが大事なんじゃねえの、そこが境界なんじゃねえの、という話になってくると思います。

 私自身もなんとなくそういうもんなのかなあ、と思っていましたし、そういう人がけっこう日本の写真世界には多いので、必ずしも全否定するものではないと思います。

 ただ、私はここで誤謬が起きていると思うんですわ。写真集がやたらと偉い扱いになってない? と。

 私からすると、欧米のアートでちゃんと食えている人たちをチラチラ遠くから眺めていると、写真集って作品集であって、作品集って印刷物ですから、ポスターとかそういうものと同じような扱いなんじゃないの? ということ。

 じゃあ何が本筋かというと、アートの世界での写真って絵画の親戚みたいな扱いですから、プリントが基準なんですよね。

 写真集は作品が、つまりプリント前提の写真作品が溜まってきたら、同じコンセプトの作品でまとめたり、作家中心で編むなら作家の年代ごとにまとめたり、と、どちらかというと利便性がより強調されているような感じがするんですよ。だって画家は画集を作るために描かないですよね。

 もちろん何にでも例外はありますし、欧米の写真家でも写真集ファーストで考える人がいるのは間違いないのですが、それはテーゼとアンチテーゼを入れ替えないで済む「プリント優先だよねー」という確固たる場の空気があって初めて成立するものなんじゃないのかなあ、という気がしています。

写真を始めたころ

 わたくし写真を始めてから2,3年で人間を撮る営業写真のプロということになってしまったので、日本に限らず欧米についてもアート写真の世界がどういうもので、どういう価値観で動いていて業界構造はどうなっていて、というのをぜんぜん理解しないまま来てしまいました。

 ところが自分で作品を売りたいなあ、作品を売って、買った誰かが壁に飾って幸せになってほしいなあ、と思ってあれこれリサーチしてみると、そういえば日本ってなんであんなに写真集優先で考えるんだろう? と不思議に思うようになりました。

 もちろん一定の枚数で組まれた組写真でないと伝わらないものというのはありますから、写真の世界で写真を組む能力は非常に大切と思います。しかし何かのシリーズを撮り始める時に、写真集を作るために撮る、という発想にどうしても馴染めず、チャレンジしてみてもぜんぜん体がついてこない状態でありました。

 そこで今日このポストに書いているようなことに考えがいたったのですが、これって結局、日本ではプリントを買う人がほとんどいないからなんですよね。もうひとつ遡ると、壁に写真を飾る人が少ないから。

  1. 壁に写真を飾る人が少ない
  2. 芸術写真のプリント需要が少ない
  3. 写真作家が食えない
  4. せめて名誉職としての「写真家」
  5. 写真集が出版されていれば写真家
  6. 誰もが写真集の出版を目指すようになる
  7. 本筋であるはずのプリントよりも写真集、という風潮

 という流れでしょうか。

コレクション

 私の場合、あちこち行って写真を撮るのですが、写真集みたいな形に編むというのに興味が全く湧きません。本当に興味がないらしいんですね。

 私が興味を持つのは、写真を撮ってきてプリントを作って、それを誰かが壁に飾って「ああ、いいなあ」と生活が豊かになってくれたらいいな、というものであって、写真集を出版社から出したい、というような願望はありません。

 書籍はカメラの技術解説本や写真の教則本にそれぞれ何冊か携わったことがあるのですが、献本を頂いても「ヒャッホー!」となることはなく、実に淡々としたものでありまして、むしろ兄に「出版したなら親孝行になるんだから教えろよお前」と叱られる始末でありました。

 私にとっては、撮ったものも書いたものも、まとまって本の形になって流通に乗って本屋さんやカメラ屋さんで販売されるというのは、「そら書いたんだから出るわな」という感じでありまして、関わる皆さんの仕事を評価しないとかそういう話ではなく、自明のことみたいに感じられちゃうんですよ。

 それと比べると、プリントの場合は現物感が非常に強いですから、「俺、売る」「お前、買う」という関係がはっきりしていて好きなんですね。価値の交換を直接できて楽しいんです。写真集も私家版を手売りすれば似たようなものとは思うのですが、写真集の場合は写真集を直接飾ることはまあないでしょうから、俺の写真が誰かの本棚にそっと仕舞われているんだなあ……という風に感じるのが限界のような気がします。

 同時に、写真展というのにも興味がないんですね。これについてはまた別の機会にと思います。

大阪のガリガリ

 一時が万事こういう感じで、日本の写真業界で是とされているあれこれに対して、いちいち納得いかねえなあ、と考えていたことの一つが写真集信奉でありまして、じゃあ少なくとも自分の頭の中だけでも楽に捉えられるようにするにはどうすれば? と考えたところ、写真業界の外にヒントがありました。

 それがコレクションという考え方。ファッションの世界の人たちの使い方としてのコレクションです。

 写真を写真集ではなくプリントを軸にして見直してみると、写真を撮って、一定のコンセプトなりでひとかたまりになったものをコレクションとして認識すると、私の場合すごく楽になれたんですね。
 写真集の場合、写真集という塊が存在としては優先して認識されるわけで、写真はその中のパーツとして写真集に都合よく収納されているイメージで、それに合わせて撮るという感覚が理解できず、けっこう苦しかったんです。

 しかし同じ写真のまとまりであってもコレクションという考え方にすれば、優位なのは個々のプリントであって、複数のプリントが一定の方向性なり「どこで撮った」なりでまとまったものがコレクションだ、と認識すれば、撮影時はある意味「まとまらなくてもいいや」と伸び伸び撮ることが出来るんですね。

 またプリントを売ることから考えても、写真集のパーツを切り売りするのではなく、誰かの壁に飾ってもらう用のプリントを販売し、それが一定の方向性で一定の数があり、出版物として需要があるなら販売いたしましょう、という風に写真集をとらえた方がしっくり来ます。まとまらないなら作らなきゃ良いんです。

コレクションも組写真

 結局のところ、写真集であろうがコレクションであろうが、どのみち写真が複数組み合わさればそれは組み写真になってしまうわけで、写真を編むスキルが必要なのは確かだと思います。

 しかしねえ、画家の全員が画集を作る能力に長けていることを求める人はいないでしょうし、写真の撮り方もコレクション作り優先というのがあって良いと思います。あまりに写真作品といえば風景写真以外は写真集一辺倒! みたいな風潮、しんどかったんですよ。

 そんなわけで、写真はまだまだ新しいジャンルの芸術ですから、もっと自由にやりてえなあ、という風に思います。私個人としては、Patreonを始めたことで質と方向性についてより敏感になり、単体のプリント主体で考えて行く方が撮る時点で楽じゃん、という風になりました。

 これを読んでいる方も、写真の撮り方や撮った写真での社会との繋がり方が様々だと思います。好きにやりましょう。要は幸せになれる人数が多いほうが儲かるわけですから、私はその方向を目指します。

 それではまた。


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