みよしさんと再会


 先日アップしたまぼさんにお誘いいただいたカフェ写真の時のモデルさん、みよしさんと久々に連絡を取りまして、フォトセッションしよっか、というので撮影をいたしました。

 コンセプトは特にきっちり決めず、白いのが撮りたいなというので2パターン組んでみました。

 モデルさんっていうと、顔かたちやポーズを決めた状態をイメージする人が多いんじゃないかと思うんですが、私の理解では写真の目的に沿って身体の運用が出来る人、というふうに過程の方を重視しています。

 つまり撮られた写真のポーズは結果であって、もちろん結果のポーズそのものが目的の写真というのもあるのでアレなのですが、フォト「セッション」としてはモデルさんがどういう風に写真を捉えているのか、というのが動きで見えて面白いんですよね。そこに「いつシャッターを切るのか」というこちら側の作為が働いて、初めて結晶のように写真が生み出されるという。

 突き詰めて考えると、エアーズロックみたいに一応動かないものとされているものが相手であっても諸般の条件は変動するわけで、常に互いが流動的であるという意味でフォトセッションになっているのかもしれませんが、まあ、まあ。

 また、撮られる意思についてもモデルさんを撮っていると考えさせられて面白いんであります。

 こちらは仕事であっても「撮りたい」という意思を持っているのが前提なのですが、被写体サイドは撮られたくない人も多くいるもんですから、常に撮られたい人ばかり相手にするわけではありません。

 極端な話、家族写真を撮影する場合なんかは相手の年齢が下がれば下がるほど、どんどん撮られたくない人である率が上がってきます。

 私が仕事での撮影で子供と動物はパス、と(冗談半分で)言っていることの理由の一つがその撮られたいという意思の問題で、撮られたいと思っていない人を説き伏せて騙して撮影するのってなんだかなあ、という気持ちになるからなんですね。プロのカメラマンってなるとそれも仕事の一環なので全然出来るんですが、意思の純粋さという意味では次点です。

 ドキュメンタリー写真や報道写真を見ていても思うのは、日本人はそれが広く社会に知らしめられるべき事柄であるかどうか、とか、歴史に刻まれるべき記録だ、というような考え方は根本的に持っていないらしいということです。

 平時であっても仕事であっても、「これは撮られるべきものだ」という感覚を持っている人はあまり見かけませんし、撮る側撮られる側に加えて撮らせる側からも、利便性を重視した写真の扱いが主体で、時間軸に対しての重みをあまり感じることがありません。

 ですから家族写真もその延長線上で、「撮るべきものである」という考え方をする人はまずいませんね。昔はあったのかもしれませんが、現代ではまず見かけない発想といって良いでしょう。正直私自身も自分の姿かたちを記録に残すべきという発想はありません。

 ですから、写真を撮る必要が生じたときに「どうしよ」となりがち。

 職業モデルさんの場合はどうかというと、撮られたいのか撮られたくないのかは個性やタイミングによってばらつきがあるでしょうが、撮られるのが当たり前というか前提になっているところが非常に楽なんですね。

 (撮られたくないかもしれませんが)撮りましょう、という前提の部分が要らない。これは話が早いですわ。

 人間って当たり前と思っていることについては強いもんなあ、というのは撮る側としてもよく感じることですから、あとはその当たり前の質を上げるためにどうするか考えるべきなんでしょうね。

 というような感じで、みよしさんとはまた光を使って遊ぼう! と約束をしたのでありました。


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